かずさの苦悩
雪菜の策略の結末
喜び、そして悲しみ
宣言と卒業
迫られる選択
忠犬ベジタリアン?
凱旋帰国コンサート
春希の恋と愛
ライブへの期待
バレンタインライブ
かずさの苦悩
春希は早速出来上がった詩をかずさにメールで送った。
翌日、ノートを持っていくという選択肢もあったのだが、少しでも早く読んでもらいたいという気持ちと、試行錯誤の跡の残ったノートを見られるのがなんとなく恥ずかしいという二つの気持ちがあったからだった。
月曜日、始発で岩津町駅に向かった春希は先週の事を思い出していた。
様子のおかしかった雪菜とかずさ。二人の間に何かがあったことは、かずさと話して分かったが、それは自分には言えない事だとかずさは言っていた。
そして、今日のテレビ収録はかずさの為だという雪菜の言葉。
「雪菜に任せるしかないかな…」
冬馬邸に着くと、いつもの様に雪菜が玄関掃除をしていた。
「おはよう、雪菜」
「あ、おはよう、春希くん。詩、読んだよ、すっごく良かったよ。なんていうか、優しい気持ちでいっぱいだよね」
嬉しそうに雪菜が感想を言った。雪菜には好評だったようだが、問題はかずさだ。
「かずさは何か言ってた?」
「『相変わらず、恥ずかしげもなく歯の浮くような台詞を並べるやつだな』って…、でも嬉しそうだったよ。すぐに曲作りに入るって言ってたから」
「そうか……」
とりあえず、直しが入ることは無さそうだな。そう思い、春希はほっとした。
そのまま玄関から入り、リビングへ行くと、かずさがソファーに座ってプリンを食べていた。
「おはよう、かずさ。相変わらずプリンが好きなんだな」
「おはよう、春希。まあ、好きなんだが、今日は特別だ。母さんの料理なんて食べさせられるんだからな。今のうちに食べておかないと、あとで腹でも壊したら食べられないかもしれないし…」
酷い言い草だが、それなりに納得できてしまうのは仕方のない事だろう。
「お前な…、いや、確かに不安はあるが……」
「それよりも春希、朝食後に新曲の練習を始めるからな。雪菜がすごく乗り気で、昼までに合わせて歌えるぐらいにして欲しいって言ってたぞ」
「え……?っていうことは、もう曲は出来てるのか?」
春希の言葉にかずさは得意顔で言った。
「あたりまえだろ、誰かさんと違ってあたしは天才だからな……、なんて、実はあたしもあの詩が気に入って、すごくいい感じに捗ったんだ」
「そうか、気に入ってもらえたんだ……、よかったよ」
朝食後、雪菜は洗い物をさっと済ませると、かずさと二人で地下スタジオへ先に下りて行った。新曲をすぐにでも歌ってみたいという雪菜の言葉に、かずさも呆れながら付いて行った。
春希は一人、リビングでコーヒーを飲みながら、書いた詩の事を考えていた。小春への想いを表したものではあったが、それだけではなく、春希自身の願いを表したものでもあった。
「きっと叶うよ、願いは……か…」
あまりのんびりともしていられないので、春希はコーヒーを飲み終わると地下スタジオへと向かった。
ドアを開けると、雪菜の歌声が聞こえてきた。
―ああ、雪菜の歌声はいいなぁ……
しかし、かずさの声が春希ののんびりとした気持ちを吹き飛ばした。
「違う、そこはそうじゃなくって、こう。 ♪♪♪…… しっとりと『聴かせる』歌だから、もっと一音一音を大切にして」
かずさが、さっき雪菜が歌っていた部分をピアノで弾く。
「ごめん、えと…、もう一度最初からお願い!」
対する雪菜も真剣な表情でやり直しを願い出ていた。
そのまま春希は雪菜がひととおり歌い終わるまでその場で待っていた。
『届かない恋』の時もそうだったが、自分の書いた詩がメロディに乗って歌われているのは少しむずがゆいような、くすぐったいような気持ちになった。
雪菜が歌い終わると、かずさが春希を見て言った。
「やっと来たか、お前の希望どおりアコースティック・ギターに合うように作ってあるからな。そこのギターを使ってくれ」
かずさはすぐ横に置かれたギターを指して言った。
「え?……これって、ブランド名も何も書いてないけど、見た感じだけでもすごくいいやつじゃ……」
「ああ…よく分からないけど、昔、母さんが知り合いの工房に作らせたやつだよ。聞いたら使っていいって言ってたから。
少なくとも、お前の安物のギターよりはいい音がするはずだからな」
「そりゃ、そうだろうけど…、作らせたって、オーダーメードかよ……」
「お遊び用の楽器だから、音よりも色とかデザインに拘ったみたいだけどな」
春希は恐る恐るギターに手を伸ばして構えてみた。
「うん、春希くん似合ってるよ。
あ…、わたしそろそろ上に行って社長や柳原さんたちを待っていないといけないから…。かずさ、お願いしてあったもの、出来てるの?」
雪菜の言葉に、かずさはポケットに手を入れてUSBメモリを取り出して言った。
「ここにMP3にして入れてあるから、それでいいんだろ?」
「うん、ありがとう。これ聞いてちゃんと覚えるから、あとは春希くんをよろしく!」
雪菜はそう言うと、急いでスタジオを出て行った。
「雪菜のやつ、ずいぶん急いで覚えようとしてるんだな…。そんなに慌てることないだろうに…」
「ボーナストラックとはいえ、あたしのCDに入る曲だからな。もしかしたら、今日母さんが聞きたいって言うかもしれないとか言ってたぞ。もちろんギター込みで」
かずさが悪戯っぽい表情で言った。
「マジかよ……。おい、かずさ、俺のパート早く教えてくれ」
「ああ、たっぷり、じっくり、徹底的に叩き込んでやるよ。まずは、一回聞いててくれ」
そう言うとかずさは、春希からギターを受け取り弾き始めた。
―やっぱりそうだ、アゴギの音が合っている。
さっき聞いていた雪菜の歌声を思い出しながら、春希はかずさの奏でるギターの音色に耳を傾けた。
「小木曽さん、今日はよろしくね」
上機嫌の朋に面食らいながらも、雪菜は収録の段取りを説明し始めた。
「それで、こちらが今日お手伝いいただく『夏美(仮名)』さんです。一般の方なので一応(仮名)です。夏美さん、よろしくお願いします。
今更紹介するまでも無いとは思いますが、こちらが『株式会社 冬馬曜子オフィス』社長の冬馬曜子、東亜テレビ…入社予定の司会の柳原朋さんです。
あと、こちらが以前この家でヘルパーをして頂いていた柴田さんです。柴田さんには表に出ずに、裏方で助言やお手伝いをして頂きます」
「あの…、ほんとうに、私なんかでよろしいんでしょうか?」
夏美は不安げに雪菜に聞いた。
「もちろんですよ、あなた以上の適任はいないと思ってますから」
雪菜は自信たっぷりに答えた。
そして、朋の司会で収録が始まった。
「なあ、春希」
練習がひと段落した所で、かずさが春希に声をかけた。
「なんだ、かずさ」
「母さんたち、どんな料理作ってるんだろうな……」
「雪菜は、母親の手料理がどうのとか言ってたから、昔作ってもらった事のあるもので、お前が好きそうなもの……甘いもの…じゃなければ肉料理…とか…?」
そんな春希の答えに、かずさは不安そうに言った。
「いや……、料理なんて作ってもらった記憶が無いな……。全部、柴田さん任せだったと思う。だいたい、母親の手料理って、普通どんなものなんだ?」
その問いかけに春希の返事は無かった。
無言の春希を急かすように、かずさは尚も問い続けた。
「なあ、春希、お前は小さい頃は母親の手料理を食べた事があるんだろ?何が美味かったんだ?」
「ああもう、覚えて無いよ。もうすぐ食べられるんだから、楽しみに待ってればいいだろ!」
春希の口調が荒くなった。言ってしまった後、春希自身もそれに気付いたのか、気まずそうに俯いた。
そんな春希を見て、かずさはあることに気が付いた。
「お前……、もしかして、あたしが羨ましいのか?以前、母さんと誤解を解いた時にも羨ましいって言ってたよな…」
「……悪い…かよ……。いや……、こんな事、かずさに言っても仕方ないな。
とにかく、曜子さんの母親としての愛情がこもってる料理なんだからな。ちゃんと食べて、喜ばせてやれよ」
そう言う春希の顔が、寂しげだった事にかずさの胸が少し痛んだ。
―春希を幸せにしてあげられない……。春希の為に子供を産んであげられない……。
あたしが春希の為にしてあげられる事なんて何もないのかもな……。
いや……、今は春希の詩にメロディーを付けて、雪菜に歌ってもらう。これだって、春希の為なんだ……
「ほら、春希、ぼさっとしてないで練習しろよ。まだ通しで弾けてないんだからな」
今はこれだけが、春希の為にしてあげられる事。
そう思い、かずさはピアノで春希のギターを導いた。
雪菜の策略の結末
「まあ……、こんなもんじゃない?」
曜子はテーブルの前で両手を腰に当てて、得意げに言った。
その視線の先には皿の上に乗ったハンバーグ。千切りキャベツとトマトが添えられているが、いたってシンプルなものだ。
そんな曜子とは対照的に、朋は少し困ったような表情をしていた。
なぜなら、ハンバーグの横には器いっぱいに盛られた肉じゃがと、小ぶりなお椀には味噌汁があった。
それらは、曜子ではなく夏美がほとんど一人で作ったものだったからだ。
番組のコンセプトとしては、冬馬曜子が娘のかずさのために料理をするということがメインで、夏美はただファンとしてその手伝いをするだけのはずだった。
しかし、いざ料理をはじめると、いきなり曜子がその予定を崩した。
「えー、私こんなにあれもこれもできないわぁ、ハンバーグだけにしてよぉ。あとは夏美さんに任せるからぁ」
拗ねたような、甘えるような言い方に、朋も番組スタッフも、そして夏美も何も言えなかった。
「えーと、そ…それでは、夏美さん、あとの料理をお願いできますか?予定されていたものでなくってもご自分が得意な料理で結構ですから」
「え……そんなこと言われましても…」
夏美は困ったようにすこし後ずさった。
「大丈夫です、材料は何でもあるものを使っていいですから。そうですね……息子さんに食べていただく…そんな気持ちで作って頂ければ」
「そうですか…それなら、あの子が小さい頃好きだったものでも……」
朋は雪菜と打ち合わせていた言葉を言った。曜子のことだから、駄々をこねてやりたがらない場合もある、そんな時の保険の為に雪菜から言われていた進行だった。
雪菜に視線を向けると、こちらを見ていた雪菜と視線が合った。雪菜は真剣な表情で頷いた。
ふと視線を下に向けるとぐっと握った拳が目に入った。朋には一瞬それがガッツポーズのようにも見えた。
「それじゃあ、わたし、かずさたちを呼んで来るね」
雪菜はそう言うとリビングを出て地下スタジオへ向かった。
「かずさたちって……、そっか、ギター君もいるのよね」
夏美の横にいた曜子が呟いた。
「え?ギター君って……かずささん以外にも食べて頂く方がみえるんですか?ミュージシャンの方かしら」
「そんなんじゃないわよぉ、へたくそなギターなんだけど、かずさが昔から想い続けてるただ一人の男…ってとこかしら。あ、これ、オフレコでお願いね」
朋に向かってにっこりとする曜子。
「かずささんが想い続けているって…、私、こんなこと聞いちゃっても良かったのかしら……」
「いいのよぉ、どうせ片思いなんだし。せっちゃんともども玉砕しちゃって、まさに『届かない恋』なのよ」
「せっちゃんって……小木曽さん?その二人が玉砕って、どんな方なのかしら」
『ギター君』の話題で盛り上がる二人に朋が慌てて声をかけた。
「えーと、そろそろかずささん達がみえますので、夏美さんは暫く画面に入らないようにキッチンの隅の方に行って頂けますか?」
朋に促されて、夏美はキッチンの隅に行き、それまで曜子にあれこれ手ほどきしていた柴田の横に並んでかずさが来るのを待った。
実際に『冬馬かずさ』を見るのは初めてだった。ほとんどテレビにも出ていないので、雑誌の写真で見ただけだったが、目を見張るほどの美しさだった。
これからその本人が来る。しかもかずさが想いを寄せている男性まで一緒に。女性としてはそちらにも興味があった。
「なんだ、見た目は普通に食べられそうなんじゃないか」
料理を見たかずさの第一声は少し驚きが含まれていた。
「なによぉ、せっかく母親として娘に食べてもらおうと頑張ったのに、その言い方は無いんじゃない?」
曜子の言葉にも刺々しいものはなく、じゃれ合っているという感じだった。
「ほーら、そんなとこで突っ立ってないで、はい、かずさはここに座って」
雪菜がかずさを促して座らせる。
「ギター君もよ、あなたはこっち」
曜子が春希に声をかけて座らせた。
夏美のいる場所からは、ちょうどかずさの顔が良くみえた。写真以上の美しさ。それも、ほとんど化粧などしていない素の美しさだった。
だが、『ギター君』は後ろ姿しか見えなかった。歳の頃はかずさと同じくらいだろうか。
そして、食事が始まった。
「驚いた……、普通の…味だ」
ハンバーグを一口食べた後、かずさが低い声で言った。
「確かに…、もしかしたら、切ったら中から肉汁じゃなくて蜂蜜でも出てくるんじゃないかって思ってたけど……、普通だ…」
二人の反応は知らない人間からすれば、ものすごく失礼な言い方だったが、当の曜子は気にする素振りさえ見せなかった。
「当たり前じゃない、柴田さんがいたんだから。で?普通ってのが感想なの?」
「いえ、普通に…美味しいです。なあ、かずさ」
「まあな、いや、まだだ。まだこっちを食べてからだ」
かずさが肉じゃがの方を見て言った。
「あ…そっちは…」
朋が、それは冬馬曜子が作ったものではないと言おうとしたが、雪菜に目で止められた。
「こっちは……、なんだよ。肉が少ないなぁ……」
一目見てかずさが言った。
「そうか?こんなもんじゃないのか?」
「いや、普通は半分ぐらい肉入れるだろ。こんな野菜ばっかで…うわ、玉葱もこんなにたくさん……」
「どこの世界に肉じゃがの半分が肉のって、冬馬家ではそうだったのか?」
春希の問いにかずさは思いだしたように言った。
「いや、冬馬家というよりは柴田さんに言ったらそうしてくれた。だって母さんが作ってくれた事なんてなかったからな」
そして、かずさは渋々食べ始めた。
「味は……良く分からないな。少なくともあたしはハンバーグがあればこれは要らない」
そんな事を言いながらも、とりあえず食べるかずさの横で春希が呟いた。
「そんな事ないだろ、これ、美味いよ。なんか…懐かしい味で……、こういうのが『おふくろの味』なんじゃないのか?うん、味噌汁も美味い」
どんどん箸が進む春希と対照的に、かずさは気に入らないようで箸が止まった。
「なんだよ、せっかく曜子さんがお前の為に作ってくれたんだから、ちゃんと食べろよ」
そう言った春希に対して、かずさは睨むようにして言った。
「お前……、やっぱりあたしが羨ましいんだろ?こうして、仲直りして、料理まで作ってくれる母親がいるあたしが!」
かずさの言葉に、春希は暫く黙って食べ続け、箸を置いた。
「ああ、そうだよ。羨ましいよ。こんなの俺は望んでも食べられないからな。だから言ってるんだよ、もっと曜子さんを大切にしろ、感謝しろって…」
「だったら、お前だって仲直りすればいいじゃないか。あたしには偉そうなことばかり言って、何で自分の事は出来ないんだよ」
「俺だけがそう思っていても、向こうにその気が無ければどうしようもないだろ」
「お前、いつも説教で親子はそんなんじゃない、お互いすれ違っているだけで気持ちは同じだって言ってたよな」
かずさも春希もお互い引っ込みがつかず、朋はただうろたえるだけだった。そして、ひときわ大きいかずさの声がリビング中に響いた。
「どうなんだよ、春希!」
バン!とかずさがテーブルを叩いて立ち上がった。皆驚いて声が出ず、リビングは一瞬で静寂に包まれた。
その静寂を破ったのは、意外な言葉だった。
「…春希……なの?」
その声に振り向いた春希が見たのは、胸の前で両手を握りしめて自分を見る母親の姿だった。
「母さん……何で…ここに?」
暫くお互い無言で見つめ合った。何を言ったらいいか分からない。
「もうー、ここまで来たら素直になっちゃいなよ、春希くん」
「雪菜……」
すこし呆れたような口調で、でも、すこし潤んだ目で春希を見て雪菜は言った。
「春希くんの言った通りだね。やっぱり親子ってお互い大切に思っているものなんだね」
「まさか……、雪菜、全部分かってて…、こうなるように仕組んだのか……?」
「仕組んだって……、人聞き悪いなぁ、偶然……だよぉ。そんな事よりも、ほら、春希くん、お母さんの手料理の感想は?」
そう言って雪菜は春希を母親の方へと向けた。
「いや、手料理の感想って……まさか、あの味が懐かしいって思ったのって…」
「そうなの、社長の手伝いってことで参加してもらったんだけど、せっかくだから息子さんに食べてもらうつもりで作って下さいってお願いしたの」
しれっとそう言ってほほ笑む雪菜に春希は改めて思った。
―ほんと、雪菜にはかなわないよな……
「ええと…、母さん、美味かったよ。ホントに」
「……春希…」
「…小木曽さん……、いったい、どう言う事か、…説明してくださる?」
地獄の底から響いてくるような重々しい口調で朋が雪菜に迫った。
「こんなんじゃ、番組の内容がおかしくなっちゃうじゃない。どうしてくれるのよ」
「え?そうかなぁ、別にいいんじゃない?だって『母子家庭の母親の手料理を子供に食べてもらう』番組だったよね」
その言葉に朋は絶句した。
「そんなことよりも、…えっと、春希くんのお母さんに聴いてもらいたい歌があるんです。かずさ、出来るよね」
突然話を振られたかずさは、ちらっと春希を見ると肩を竦めて言った。
「さあな……でも、何とかなるんじゃないか?」
「じゃぁ、行こうか?」
雪菜は春希とかずさの手をつかむとぐいぐい引っ張っていった。
「ちょっと、小木曽さん、歌うって何を?」
朋の問いかけに雪菜は満面の笑顔で答えた。
「春希くんが詩を書いて、かずさが曲を付けて、わたしが歌う、三人の歌、第二弾でーす」
喜び、そして悲しみ
小春は岩津町駅の改札を抜けると、急ぎ足で冬馬邸に向かった。
朝、春希からのメールで新曲がもう完成している事を知った。
夕方からの開桜社のバイトは急用が出来たと伝えて今日は休みにして貰った。
早く聴きたい……そんな気持ちでようやく見えてきた冬馬邸の玄関は、いつもと違って何人かの業界風の人たちが立ち話をしていた。
近づいて、ようやく見知った顔を見つけて声をかけた。
「こんにちは、小木曽先輩。今日って確かテレビの収録があったんですよね。もう、終わったんですか?」
「ああ、小春さん、こんにちは。うん、ばっちり終わったよ、大成功」
上機嫌の雪菜が見つめる方向に目を向けると、そこには年配の女性と話す春希の姿があった。
「あれ、先輩と話してる人って……」
雪菜はそう呟いた小春の手をつかむと、ぐいっと引っ張って行った。
「はい、春希くん。ちゃんと紹介するんだよ」
二人の前に小春を連れて行くと、雪菜は少し離れた所にいるかずさの方へ行き、話し始めた。
「あの……春希先輩?」
春希はじっと小春を見つめると、その視線を横の女性に向けて言った。
「母さん、紹介します。この人が俺が今交際している、杉浦小春さんです。小春、この人が俺の母さんだよ」
「え?え?……あ…あの……杉浦…小春ですっ!」
深々と頭を下げる小春に優しそうな声がかけられた。
「あらあら、本当にかわいらしいお嬢さんなのねぇ、小春さん、息子のことよろしくお願いしますね」
「は…はい……、こちらこそお願いします…って……あれ?先輩とお母さんって…確か……」
小春の言わんとする事は春希にも分かっていた。
「実はな…まんまと雪菜にしてやられたって言うか……強引に?……仲直りさせられたよ」
春希は少し照れたように言った。
雪菜とかずさはこちらを見ながら談笑している。二人とも幸せそうだ。
「それにしても、小春さんはまだ学生さんなのかしら?」
「はい、今度大学の2年になります……あの、何か…」
春希の母のちょっと困ったような表情に小春は戸惑って聞いた。
「あら、ごめんなさいね。実は息子にまさか彼女さんがいるなんて思ってもみなかったもので……嬉しくて、ついつい孫はいつなのかなんて……ね」
その言葉に春希は顔を真っ赤にして答えた。
「か…母さん、突然何を言い出すんだよ、全く……気が早いんだから」
春希も口ではこう言っているが、嬉しそうに目尻を下げていた。
小春はそんな二人を幸せそうに見ていたが、すぐ傍で談笑していたはずの二人の様子が変わったのを感じて振り向いた。
見ると、かずさが玄関に駆け込んで、雪菜が後を追っている所だった。
春希も不安そうにそちらを見ていたが、今は母親の相手をしているのでそちらに行くわけにもいかないだろう。
「先輩たち、どうしたんだろう。ちょっと見て来ますね」
小春はそう言うと雪菜を追いかけて行った。
かずさは二階の自室に閉じ籠った。
その前で雪菜は立ち尽くしていた。
―こんなはずじゃ、なかったのに……どうして、こうなっちゃうんだろう。
全て計画通りだった。最初は二人とも出て来た料理が、曜子の作ったものだと思って食べていた。
野菜嫌いのかずさなら、あのメニューならきっと文句を言うだろう。
それを春希が窘める。そして二人が口論になれば、誰かが二人を止めようとし、そこで春希の名前が呼ばれるだろう。
もし、だれも言わなければ、雪菜自身が言えばいい。
そこは予想通りというか、かずさが怒って春希の名前を叫んだ。
後は親子の対面になれば、どちらも根本的に嫌っていないのだから全てうまくいくはず。
そして、最後に春希の作詞した歌を、『時の魔法』を聴いて貰えれば、何もかもが丸く収まる。
かずさも、苦しみから解放される。そして、もう一度春希と向き合ってくれる。
それで、やっとやり直しが出来る。最初から……二人が春希を想い、微妙なバランスの上に成り立っていたあの頃のような状態から。
二人で素直な想いを春希に伝えて、正々堂々と奪い合う。もちろん小春だって黙っていないだろう。
どちらが勝っても、二人とも負けても、その後かずさとは一生笑いあっていられると確信していた。
でも、これでかずさはまた、引いてしまうだろう。
春希への想いを胸の奥にしまって、一歩下がって、小春や雪菜のすることを、黙って見ているだけ。
それじゃ、ダメだ。ちゃんと向き合って想いを伝えて、返事を貰わないと……
かずさと再会し、全てさらけ出して雪菜はそう悟った。
雪菜のように、フライングして強引に自分のものにしてしまったり、かずさのように、遠くへ行って身を引くことで相手に譲ってしまったりしたからおかしくなったんだと。
全てうまく行っていた。
雪菜が『時の魔法』を歌い終わった後、かずさは目にいっぱい涙を貯めて雪菜を見て言った。
『ありがとう、雪菜。あたしの為に……あたしがあんな事言ったから……全部、あたしの為にやってくれたんだろ?』
弾き終わったギターを脇に抱えて、母親と照れくさそうに話す春希を見て、雪菜も溢れる涙を抑えきれなかった。
『うん、これからがわたしたちの勝負だよ』
『ああ、負けないからな』
そう、勝負だった、はずなのに……
雪菜はかずさの部屋のドアを見つめたまま、なにも出来ずに立っていた。
どれぐらいそうしていただろう。ほんの一瞬なのか、ものすごく長い時間なのか時間の感覚さえ無くなっていた。
ふと、視線を感じて振り向くと、心配そうにこちらを見る小春と目が合った。
「あ……」
「あの…、冬馬先輩、どうかされたんですか?」
けれど、何を言ったらいいか分からなかった。
雪菜が答えられないでいると、やがて、春希もやってきた。
「どうしたんだ?…かずさは?」
「あ…、春希くん。……お母さんは?」
「ああ、今日は急にここに来ることになったから、これから会社に行って片付けなきゃならない仕事があるらしい。テレビ局の人に送ってもらうって言ってた」
「そうなんだ……」
「それよりも、かずさは?……何かあったのか?」
「……」
雪菜が答えられないでいると、部屋のドアがゆっくりと開き、目を真っ赤に泣き腫らしたかずさが顔を出した。
「かずさ……、いったいどうしたんだ?」
「何があったんです?」
春希と小春が心配して聞いて来た。かずさは暫く黙っていたが、やがて、ゆっくりと話し出した。
「春希…杉浦さん、心配かけた。雪菜も…色々とありがとう。少し、夢を見させて貰ったんだな……幸せな夢だった…夢で終わったけど…」
そう言いながら、かずさはぼろぼろと涙を流し始めた。
「夢って……何なんだよ?終わったって……」
「春希くん、それは……」
「いや、いいんだ雪菜。あたしも話さなきゃって思ってたから」
そう言うと、かずさは春希を真っ直ぐに見て言った。
「お母さん、孫のこと楽しみにしてたよな」
「ああ、そんな事も言ってたな…って、それがどうかしたのか?」
「そうですよ、別に春希先輩と私の…っていうだけじゃなくって、それこそ冬馬先輩だって……」
「小春さん!」
雪菜が小春を止めに入ったが遅かった。
そんな雪菜を辛そうな笑みで見て、頷くとかずさは話し出した。
「あたしは、峰城大付属に入った頃から、生理が止まってしまったんだ。ウィーンに行ってから病院で検査して貰ったけど原因も治療法も分からなかった。
でも、別にそんなこと当時は気にしていなかった。だって、春希以外のやつの子供なんて生むつもりも無かったしな。
そして、春希の子供も……たった一つの望みが断たれて、もう、無くなって……でも、それで良かったんだ。もう、会う事も無いって思ってたから…」
淡々と話すかずさ。春希は驚きの表情で、小春はただ真剣に、そして雪菜は辛そうに俯いて聞いていた。
「あたしは、春希と雪菜が二人で幸せになっててくれればそれで良かったんだ……でも、現実は違ってた。春希は杉浦さんと…
だから、あたしは雪菜に会いに来れた。だって、もうあたしたちは不倶戴天の敵じゃないから…それなら生涯の大親友になれるかもしれないって思って。
それなのに雪菜は、まだあたしの気持ちを春希に向けようとするんだ。だからあたしは雪菜に言ったんだ。
『春希は本心では、お母さんと仲直りしたいって思ってる。でももう、お互いに素直になれないから今のままじゃ無理なんだ。
でも、もし自分に子供が出来たら、子供を間に置けば仲直り出来るかも知れないって言ってた』って。けど、だからこそあたしには無理だって。
そしたら、結局、雪菜は子供の力無しで解決してくれて……。あたしも、それでふっ切れたと思ったのに……
さっき、春希とお母さんと杉浦さんが話してるのを聞いて、やっぱり、皆、孫が欲しいんだって……でもあたしには……」
春希も雪菜も、かずさの気持ちを思って、黙ってただ、聞いていた。
けれど、小春はかずさの言葉が終わるのを待ちきれないといった感じで切り出した。
「先輩は、不妊治療で通院されたんですか?」
あまりに抑揚のない言い方に、春希は驚いた。いつもなら、こういう辛い話の時は、小春も相手の気持ちを考えて優しく言うのが普通だった。
「いや、別に誰かの子供を産むつもりも無いからな……。一度診てもらってそれっきりだ」
すると、小春は今度は少し怒ったような表情で続けた。
「だったら、そんな話はしないで下さい。世の中には、本当に子供が欲しくて何年も不妊治療を続けている人がいるってのに、その人たちに失礼です」
「あんたは別にそんな事無いんだろ?そんなやつにあたしの気持ちなんか……」
「ええ、分かりません」
いつの間にか、二人は睨みあうように言葉を向けていた。
「だったら一般論だけであたしを責めるな!」
「一般論なんかじゃありません!」
小春の眼には、大粒の涙がたまって、今にも流れ落ちそうになっていた。
「私の母は、10年以上不妊治療で病院に通っていたんです」
そう言った瞬間に、たまった涙が頬を伝って流れて行った。
宣言と卒業
小春の言葉にかずさは一瞬黙ったが、すぐに言い返してきた。
「だからって……、その結果あんたが生まれたから、あたしにも希望を持てってか?」
睨むかずさに対し、小春は静かに言った。
「違います…、母は10年以上治療して、それでも駄目で……私は母が再婚後に生まれたんです」
「だったら、問題は男の方にあったって事じゃないのか?それこそあたしの状況とは違いすぎるじゃないか」
「それも…違うんです。病院ではっきりとそれは確認していました。母も生理不順で…年一回来るかどうかだったそうですから……」
小春の説明も少し要領を得ないものだった。かずさはさらにイライラして荒く言い放った。
「それで、ダンナと別れて別の男と結婚したら、たまたま運よく子供が出来ましたってか?それとも春希じゃなくって他の男にすればって言いたいのか?」
「違います!」
それまでとは打って変わって、大きくなった小春の声が響いた。
「私は、ただ諦めて欲しく無いんです。春希先輩が誰を選んでも受け入れます。でも、先輩への気持ちを最初から閉ざして欲しく無いんです。
願いは、きっと、叶う……。『時の魔法』は私の両親の事を聞いた春希先輩が、その事を織り込んで書いてくれました。ほんとうにいい詩でした。
まるで、まだ話していない事まで全て分かってるような……」
視線を春希に向け、小春はさらに涙を流した。
「俺にまだ話していないって……、それがお母さんの不妊治療の事なのか?」
それだけではない事も、春希には薄々感じられていた。小春の雰囲気にはもっと重い何かがある。
「私の両親は、学生時代、交際していました。でも、卒業して、就職して、環境が変わると父の方から、他に好きな人が出来たって告げられたんです。
母はショックで泣き続けて、そして両親が持ってきたお見合い話を受けて結婚を決めてしまったんです。そして、式の直後から母は体調に違和感を感じてたんです。
生理が来ない……でも、それはきっと妊娠したんだろうと。
別れた恋人への想いをふっきる為にも子供に愛情を注ごうと、期待のもと産婦人科へ行った母を待っていたのは、不妊症という現実でした。
それでも偶然駅で顔を合わせる事もあった別れた恋人…私の父と世間話程度はしていて、父も結婚したと聞き、お互い幸せになろうねって話して。
だから、母は演じたんです。父の前で子育てで忙しくも幸せな母親としての自分を。
そうしてお互い子供の成長を自慢しあって……10年が過ぎて……。
ようやくゆっくりと話が出来るまで気持ちが落ち着いたと確信できたので、一度食事をしながら話をしようという事になったんです」
かずさも少し落ち着いたようで、おとなしく小春の話を聞いている。
小春は、ただ、淡々と話を続けた。
「最初は穏やかに近況を話していたのに、いつの間にか昔話になって、そしたら父の方から今でも母の事が好きだって。最初それを聞いた時、母は今更そんな事言われてもって。
けれど、父の話は、だから今どうこうしようという事じゃなくって、将来の話。
『お互いの伴侶に先立たれてそれぞれが一人になった時、まだお互い好きだったら結婚しよう』
母もやっぱりまだ父の事好きだったって気付いて…でも、同時にもう一つ気付いた事があったんです。
本当は、今目の前にいる人の子供を産みたかったって。今すぐ父の言う状況になっても、この人の子供は産めないんだと思うと悲しくて、心の底から治って欲しいと願ったって。
でも、そんな心を悟られないように気を付けて話を終えて、また普段の生活に戻って暫くしたら、毎月生理が来るようになったって。
確かに彼の子供を産みたいと真剣に願った。そのおかげなのか、単なる偶然なのか、でもそれからずっと毎月必ず。
母以上に驚いたのが結婚相手で、喜びながらもどこか母に不信感を持ったみたいで……具体的に言うと、母の浮気を疑っていたみたいです。
毎晩、母を求めるようになり、遠方に出張があっても、無理をしてでも帰って来たり……そして、出張先から帰ってくる深夜の高速道路で事故を起こして亡くなったんです」
小春の話に、春希は驚いた。確かに小春の母の最初の結婚相手が、交通事故で亡くなったと聞いてはいたが……。
「母は自分を責めました。自分が信じてもらえなかったから、無理をさせてしまったのだと。深夜の高速道路の単独事故、警察は居眠り運転だろうと。
一周忌が過ぎて、ようやく落ち着いて来た頃、全てを打ち明けるつもりで父に会ったんです。自分には本当は子供なんかいない事。
ただ幸せそうに演じていただけの嘘だったと。母の浮気を疑った夫が、出張先から無理に帰宅しようとした為の事故だったと。もう、何を言われても仕方ないって思って。
でも、父から出てきた言葉は、実は自分も嘘を吐いていた、でした。本当は子供どころか結婚さえしていないと。
だから、あの将来の結婚の話は、自分は準備万端で母の家族の不幸を待ち構えていた上での話だ、それを望んでいた自分に全ての罪はある、と。
その後、何度も話し合って、ようやく母の気持ちも落ち着いて、二人は結婚したんです。私が生まれたのはその2年後でした」
そこまで話すと、小春は言葉を止め、周りの3人を見渡した。それぞれ何か思う所があるのか、俯いて黙っている。
「だから、あの歌が好きなんです。『時の魔法』、願いはきっと叶うって、一枚の葉も付けない枯れた樹にも奇跡は起きるって、信じさせてくれるから……」
しばらく沈黙が続いた。それを破ったのはかずさの声だった。
「だったら……、あたしも…願ってもいいのかな……望んでも…いいのかな……」
「もちろんだよ、かずさ。小春さんの話を聞いて思ったんだけど、『病は気から』って言うじゃない」
「そうだよな、気持ちを強く持って、願えば…」
「でも、かずさ。かずさの場合はまず食生活を何とかしないとね。好き嫌いなく、もっと野菜を食べて」
「…分かってるよ、……やってやる。その為なら、何だってやってやるさ。ベジタリアンにだってなってやる」
そのかずさの言葉を聞くと、小春は一歩後ろに下がって深々と頭を下げた。そして顔を上げ、にっこりと笑うと階段を下りて行った。
すぐに小春を追おうとした春希をかずさが呼び止めた。
「春希……今更こんな事言うのもなんだけど…あたし、やっぱりお前の事好きだ。大好きだ!」
「かずさぁ、一人だけずるい。わたしだって春希くんのこと大好きなんだから!」
二人に突然迫られて、春希はたじろいだ。
「えーと、…あ、俺、小春の様子を…」
「あ…おいこら、春希!逃げるのか?」
「大丈夫だよ、かずさ。逃げ場なんて無いんだから」
楽しそうに笑う雪菜と、それにつられて笑うかずさ。
二人の笑い声を背に、小春の後を追って階下へと春希は向かった。
その後ろ姿を見送りながら、雪菜は呟いた。
「ありがとう、小春さん、かずさを救ってくれて……」
意外にも、小春は階段のすぐ下に立ち止まっていた。
「小春」
春希の声に振り向いたその顔は泣き笑いと言ったらいいのか、頬に涙の跡を光らせながら笑っていた。
「あーあ、完全復活しちゃいましたね」
「…え?」
「ここまで聞こえましたよ。大好きだ、って……嬉しかったですか?」
そう言って、傍に来た春希の胸に額をこつんとぶつけた。
「少し、このままでいいですか?」
しかし、春希からは、小春の予想した言葉は帰って来なかった。
「…いやだ」
春希は小春の肩に腕を廻すとそのまま抱き締めた。
「…あ……」
小春の体は引き寄せられ、額の代わりに頬が春希の胸に押しつけられた。
「もっと、近くに感じたい。それと……そろそろ先輩を卒業したいな」
小春も春希の背中に腕を廻すとぎゅっと抱き締めた。
「はい……春希さん…大好きです」
迫られる選択
その日の夕食後、小春は『時の魔法』を聞かせてもらった。
三人とも穏やかで優しい表情をしている。
聞き終わると自然と涙が溢れてきた。
「すごく、素敵です。歌詞も、メロディーも、歌声も。
身内びいきって言われちゃうかもしれませんけど、今まで聞いた音楽の中で、一番心に染み入りました。」
そう言って、深々と頭を下げた。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど…、わたし、ちょっと声が詰まっちゃったとこあったよね」
「春希に比べたら、全然大丈夫だよ」
雪菜の反省の言葉に、かずさが答えた。
「俺は…仕方ないだろ、素人なんだから」
春希は貶されて言い返したが、その顔は言葉とは裏腹に嬉しそうだった。
「じゃぁ、私、今日はこれで失礼させ貰いますね」
演奏後にあれこれ言い合う三人に、小春は言った。
「あ、それなら俺も今日はこれで帰らせて貰うよ」
いつもはまだ練習のはずの春希は、小春を送ってそのまま帰ると告げた。
「ああ、今日だけは特別に許可してやるよ。卒業祝いだ」
かずさの言葉に春希は顔を真っ赤にして驚いた。
「お…お前、聞いていたのか?」
そんな春希の動揺など全く意に介せぬとばかりに、かずさは続けた。
「ああ、何が『そろそろ先輩を卒業したいな』だ。あたしからすればいつまで『先輩』でいるつもりだって思ってたのに」
「そうだよ、…でも春希くん、何か心境の変化でもあったのかな?」
雪菜もちょっといじわるそうな口調で聞いて来た。
「そ…それは、だな……。そ、そうだ、…母さんの手前、彼女にいつまでも先輩なんて呼ばれてる訳にもいかないだろ…」
「なんか、いかにも取ってつけたような言い訳だな」
「だよねー、ま、いいけど」
「もう、いいだろ。さ、小春、帰るぞ」
そう言うと、春希は小春の手を引いてスタジオを出て行った。
そんな二人を見送った後、雪菜はかずさに言った
「あーあ、まだまだディフェンス堅いなぁ…」
「でも、攻められて慌てたってことは、まだ望みがあるってことだろ…」
かずさも雪菜と並んで、二人が出て行ったドアを見つめて呟いた。
「そうだね、…やっと、ここまで来れたんだなぁ……」
冬馬邸を出てから駅まで歩く途中で小春は考えていた。
『春希先輩』から『春希さん』。彼は何を思い、なぜこのタイミングなんだろうか。
「春希さん」
小春は隣を歩く春希に呼び掛けてみた。
「……何?」
少し間が空いた後、返事があった。
「やっぱり、まだ慣れないですね。春希さんも……」
そして、また暫く間が空いた後、春希はゆっくりと話し出した。
「…やっぱり、皆何か感じるんだろうな…。確かにちょっと変なタイミングだったかもしれないな……。
もう少し考えをまとめてから話すから、ちょっと待ってて貰えるかな」
そう言うと春希は繋いだ小春の手を握る力を少しだけ強くした。
「……はい」
小春も握り返し、そのまま二人は黙って駅の改札を抜け、電車に乗った。
そして電車を降り、小春の家に向かう途中で春希は話し始めた。
「本当のところは、動揺していたんだ。雪菜とかずさに好きだって言われて……。
だから単純に、小春への気持ちを確かめるつもりだったのかもしれない。
考えてみると、俺は昔からそうだったんだ。雪菜とかずさの二人との距離をいつも意識して……。
俺は三人でいるんだから、二人とも同じ距離感で接したかったんだ。でも、雪菜はどんどん距離を縮めてくるんだ。
だから、俺は寄って来る雪菜から少しだけ離れるようにして、逆にかずさに近寄った。あいつは文句を言いながらも少しだけ近づくのを許してくれた。
そうやって三人の距離は少ずつ縮まって行ったんだ。
そして、学園祭ステージで三人の距離は無くなった、そう感じた。最高に幸せだったよ。俺はそれ以上は何も望んでなかったんだ。
俺は、男女交際なんて、自分には縁のない事だと思ってた。口うるさくて、おせっかいで、ウザいっていつも言われてたからな。
でも、雪菜に迫られて、結局、考える前に受け入れてしまって……、後から都合のいい理由を勝手に付けて……、かずさは俺の事なんか好きになってくれるはず無いって。
自分の気持ちを考える前に、雪菜を好きだって、だから受け入れたんだって自分を納得させて……。
今日は、二人がこれまで言わなかった『好き』って言葉をはっきりと言ってきて、俺との距離を縮めようとしてきたのが分かったんだ。
だから、反射的に小春との距離を縮める為に、呼び方を変えて貰ったんだ。周りとの相対的な距離感が変わるのが怖かったんだよ。」
話しているうちに、いつの間にか小春の家の前に着いていた。
小春は、暫く家の玄関の明かりを見つめていたが、くるっと春希の方を向くと、
「やっぱり春希さんは優しいですね、……優しすぎます。そうやって人の気持ちばかり気にしてるから、自分を苦しめて、結果的に相手も苦しめるんですよ。
いい機会ですから、一度自分の気持ちを考えてみて下さい。誰を好きなのか、じゃ無いですよ。だって皆好きなんだから。
……その人が自分にとって、どういう存在なのか。私はあなたにとってどういう存在なのか。
無理に好きになられて、以前の小木曽先輩みたいになっちゃうのは嫌ですから。心の底から望まれなきゃ嫌なんです。……我儘だって分かってるんですけど…」
小春は真剣な表情で春希を見た。
「……」
春希は何も口に出せず、ただ黙って小春を見つめた。
「でも、希望は持ってますから。だって、この2年間の私は、今までで一番幸せでしたから。二人で幸せな時間を過ごしてきたっていう自信はありますから……
ずっと、ラブゲームだと思っていた試合が、気が付いたら追い上げられていて、ファイナルセットまで来て、でもまだアドバンテージは私です。
一つ間違えても、まだタイブレーク。ほんの少しですけど、やっぱり彼女っていうのは有利だって思ってますから。じゃ、おやすみなさい」
そう言うと、小春は手を振って玄関を入って行った。
春希は小春がいなくなった玄関先で暫く星空を見上げながら立っていた。
「この2年間の、幸せな時間……か」
かずさと再会して、そして雪菜とも再会して、二人への想いは少しも変わらなかった事が分かった。もちろん、小春への想いもこの先変わる事は無いだろう。
だから、はっきりさせないと……自分自身が誰を求めているのか……誰を幸せにしたいのかを……
忠犬ベジタリアン?
翌日からも、春希はこれまでと変わらず岩津町の冬馬邸へ始発で向かった。
「ここに来るのも今週で終わりか…」
思わず口にした言葉に、何か感慨深い気持ちになり、立ち止まって来た道を振り返った。
視線の先には制服を着た黒髪の少女と、その少し後ろをギターを担いでついて行くこれも制服姿の少年がいた。
踵を返し、前を向く。
その視線の先、大きな家の玄関前には、にっこりと笑ってこちらを見ている栗色の髪の、もう少女とは言えないぐらい美しく成長した女性がいた。
目を閉じると、胸に顔を埋めて安らぐ少女のポニーテールが顔の前で揺れているのを感じた。
そして、目を開ける。早朝の街並みには自分以外誰もいない。朝の冷えた空気が心地良かった。
ゆっくりと歩き出し、冬馬邸へ入る。
今日は珍しく雪菜が玄関掃除をしていなかった。
玄関には鍵が掛っていなかったので、そのまま入ると、奥から雪菜がパタパタとスリッパの音を響かせてこちらへ来た。
「おはよう、春希くん。ごめんね、昨夜ちょっと夜更かししちゃって、今、朝ご飯の準備が出来たところだから。かずさももう座って待ってるよ」
「ああ、おはよう、雪菜。なら今から皆で食べようか?」
「そうだね、食べようか」
そのまま二人並んでダイニングへ入った。
そこで春希が見たものは、これまでの朝食とはまさに別世界……そう、確かに別の世界のようだった。
いつもなら、赤や黄色オレンジが並ぶテーブルの上には、確かにトマトの赤、卵の黄色はあったのだが、本来あるべきものが…デザートの類が無かった。
そして、そのテーブルの前で、目の前の緑色の液体の入ったグラスを見て、真剣な表情のかずさ。
「…おい、かずさ、何をそんなに……。それって、いったい何なんだ?」
不思議に思い春希が聞くと、隣にいた雪菜が答えてくれた。
「青汁ジュース…なんだけど、かずさの希望で」
「かずさの希望って……」
そこで春希は昨日のかずさの言葉を思い出した。
『ベジタリアンにだってなってやる』
「いくら何でも…いきなりやりすぎだろ?……」
「わたしもそう言ったんだけどね……ほんと、言い出したら聞かないんだから」
クスッと笑って雪菜はそのままかずさの隣に座った。
その雪菜の前にも、かずさと同じ飲み物があった。
えっ?と思い、いつもの自分の席を見るとそこにも同じものが……
「あの……もしかして、俺もこれ飲まなくっちゃいけない…のかな?」
そう口にした瞬間に、二人の厳しい視線が向けられた。
「……わかりました…はぁ………」
春希にしても、青汁なんてこれまで飲んだことなど無かった。ただ、CMで『まずい!』と言ってるのを聞いた事があるだけで、実物を目にしたのも初めてだった。
そのグラスに手を伸ばしたところで、かずさの視線がこちらに向けられているのを感じた。
雪菜に目を向けると、こちらはすがるような視線を向けている。
―…そうか、そうなんだよな。俺たちが出来る事はこういう事なんだよな。
雪菜にむかって軽く頷くと春希はその中身を半分ほど喉に流し込んで言った。
「……なんだ、思ったほど悪くないな。ちょっと構えすぎだったのか」
そう言って目の前のホットケーキに手を伸ばした。
「あ、それ、もう味付けしてあるから何も付けなくてもいいよ」
雪菜も春希の態度にほっとしたのか、表情に安堵が感じられた。
ホットケーキの中には微塵切りにした野菜が入っていた。
「へぇ、野菜ホットケーキか。結構いけるもんだな」
当然なのだが、あのドリンクの後では何を食べても甘く感じた。
そんな春希を見てかずさは、意を決したようにグラスを口に持って行き、一口飲んだ。
「……!」
言葉は無かった。しかし、文句も無く、春希と同じように野菜ホットケーキを口に運ぶ。
そうやってある意味試練のような朝食が始まった。
けれど、意外と慣れるもので、食べ終わる頃には、青汁の独特の臭みもあまり気にならなくなっていた。
ただそれは、かずさ以外に当てはまる事だったみたいで、この『急造ベジタリアン(もどき)』にとっては最後の一口まで慣れは感じられなかった。
「……ごちそうさま」
そう言うと、かずさはもう放心状態だった。目が虚ろで焦点が定まっていない。
「おい、かずさ、大丈夫か?」
心配する春希に雪菜は椅子から立ち上がると言った。
「たぶん大丈夫だよ、見てて」
そのまま冷蔵庫の扉を開けると、中から小さなカップを取り出してかずさの目の前に置いた。
「かずさ、がんばったね。ごほうびのデザートだよ」
その瞬間に、それまで焦点の合っていなかった目が生き生きと輝きだした。
「あ…あ……あぁ………プリンだぁ…」
飛びつくようにスプーンを刺して大きくすくい、口に持って行こうとするかずさを雪菜は止めた。
「待って、かずさ」
その言葉にかずさは、恨めしそうな視線を雪菜に向けた。
「なんだよぅ、意地悪するなよぅ……」
もう泣きそうなぐらいなのに、それでも言いつけどおりにかずさは食べるのを待った。
そんなかずさに、雪菜は優しく言った。
「そうじゃないよ。意地悪じゃなくって、そんなに慌てて食べたらもったいないよってこと。ゆっくりと、ひとくち一口味わって食べたほうがいいよ」
「そうかな…じゃ」
そう言うと、かずさは控え目にすくって口に入れた。
「そう、そうやって味わって食べるの」
雪菜は諭すように語りかける。
かずさは、うんうんと頷きながら小さなプリンをゆっくりと時間をかけて食べた。
「こんな小さなプリン一つで、こんなに幸せになれるなんて、初めて知ったよ……」
かずさは空になったカップを見つめて呟いた。
食事以外はこれまでと変わりなく日々が過ぎて行った。
新曲の練習も、順調に進み、金曜日のレコーディングも午後には無事に終了し、春希の冬馬邸での仕事は全て終了した。
もちろん取材も、記事のチェックも完了し、ここへ来る理由はもう無くなってしまった。
あと残すは、コンサート当日の記事だけになった。
その日の夕食は雪菜の希望で打ち上げパーティーになった。
小春も呼ばれ、かずさ、雪菜と合わせて4人でのパーティ―になった。
テーブルの上には料理とデザートがこれでもかというぐらい並べられていたが、かずさはデザートには少しも手を付けなかった。
「かずさ、今日だけは無理に我慢しなくてもいいんだよ」
雪菜の言葉にもかずさは野菜中心に自分の皿に盛り続けた。
「いや、これでいいんだ。だって最近、体調がすごくいいんだ。夜もよく眠れるし。それにデザートは最後に味わって食べるのが幸せなんだって分かったから」
そう言うかずさを、春希と雪菜が穏やかな笑顔で見ているのを見て、小春は少し胸がちくりとした気がした。
パーティーが終わり、皆で片付けをした後、揃って地下のスタジオへ行った。
かずさはピアノの前に座り、鍵盤を軽く叩いた。
「春希、ギターを持ってこいよ。ちょっと一曲やろう。まあ、ライブの練習だな」
その言葉に春希は改めて思い出した。
―そうだ、まだライブが残っているんだ。なら、これからもここに来る事が……
そんな事を考えていると、隣の小春がつんと脇腹をつついて来た。
「なんか、春希さん、今ほっとしませんでしたか?」
一瞬誤魔化そうと考えたが、今更そんな事は必要ないなと思い直した。
「ああ、そうだな。まだ三人でいっしょにやる事があるんだなって思ったよ」
そう言ってギターを取りに行った。
当然ライブでは『届かない恋』を演るのだろう。
ギターを構え、雪菜に向かって聞いた。
「雪菜、準備はいい?」
「え?…わたし?わたしも…歌うの?」
驚く雪菜にかずさは呆れたように言った。
「当たり前だろ、それともボーカル譲って何か楽器演るのか?」
「えー、そんなの無理だよぅ…」
「もっとも、準備いいかなんて聞くまでも無く、演奏が始まったら歌い出すんだろうけどな」
笑いながら春希が言う。
「もちろんだよ、だってわたしたち三人の歌なんだもん。それよりも、かずさはどうするの?キーボードは譲るんでしょ?」
「そうだな……、ピアノは鍵盤楽器だけど打弦楽器でもあるから…、打楽器と弦楽器かな」
「打楽器と弦楽器って…二つも演る気かよ」
呆れたように春希が言う。
「あたしに無理やりサックスとベースを演らせた奴が言える台詞か?」
「そう言えば……そんな事もあったな」
そして演奏が始まり、雪菜の歌声がスタジオに響いた。
そんな三人の姿を小春はただ黙って見つめていた。
凱旋帰国コンサート
その日の春希は、これまでと変わり無かった。
この2年間、恋人として小春の傍にいてくれた春希そのものだった。
それでも、いや、だからこそ小春は考えてしまう。春希が今、何を思い、どうしたいのか。
あの二人に勝てるのか?春希には恋人としてのアドバンテージなどど言っていたが、正直そんなものは、単に強がりでしか無かった。
そんな事を考えていると、いつの間にか隣に座った春希に肩を優しく抱き寄せられた。
「何を考えてるんだ、小春?」
優しい春希の声が、小春の心に響いて来た。
「……この間はああ言っちゃったんですけど、私の…アドバンテージって、何でしょう?」
気が付くと、思ったままを口にしてしまっていた。
春希は、暫く考えると、抱き寄せた手に少しだけ力を入れた。
「こうして……傍に居られること…かな」
小春は春希の肩に頭をもたれ掛けさせると目を閉じた。
「そうですね……」
少なくとも、今は春希の心は小春に向いている。春希が答えを出すまでは……。
その日は、おそらく冬馬先輩のコンサートの日だろう。春希は何も言わなかったが、小春はそんな気がしていた。
そして、「冬馬かずさ 凱旋帰国コンサート」当日の日曜日が来た。
春希と小春は、この日は会場での取材準備のため、揃って開桜社に出社した。
「おはよう、北原君……って、まぁ!今日はご同伴で出勤ですか」
鈴木の言葉に春希は苦笑しながら答えた。
「おはようございます、鈴木さん。一緒の電車で来たんですから、別に驚くことも無いでしょう」
春希はさらりと受け流そうとするが、鈴木の追及もしぶとい。
「どこから…、それともいつからの方が正しいのかな、一緒に居たのは。それに今日もこれからずっと一緒なんでしょ?もうー、いつまで一緒に居るんだか」
その言葉には小春が答えた。
「そうですね……少なくとも、コンサートが終わるまでは…一緒に居られると思います……」
少し沈んだ小春の声に、春希は優しく頭に手を乗せて微笑んだ。
そんな春希の態度を余裕と受けたのか、鈴木はさらに攻め続けた。
「ところでさぁ、今日は元カノ1号・2号さんはどうしてるの?」
「あのですね、鈴木さん。話がどんどん飛躍しているように思うんですが……そもそも誰を指して言っているのか分かりませんが」
春希も負けじと防御を固める。しかし、ほぼ同時に発せられた小春の言葉によってその効果は無くなった。
「お二人は今日は朝から会場へ行かれてます」
「ほらぁー、小春っちの方がちゃんと分かってるんだから、とぼけたって無駄よ。というわけで、二人とも元カノ認定で決まりってことね」
鈴木は満足そうに春希を見た。
春希もこうなっては諦めるしか無かった。
「付き合って無かったって言っても、信じてくれないんですから、もう何も言いませんよ」
ここでやっと、鈴木は少し言いすぎたかなと反省し、小春にフォローの言葉をかけた。
「でもさぁ、今の二人の様子じゃ小春っちが3号さんになる事は無いんじゃないの?いいなぁ、ラブラブで」
鈴木としては、二人が別れそうにないという意味で言ったつもりだった。
「そうですね、そんな事はあり得ませんね……」
小春は二人に背を向けると言った。
「私は欠番になった2号さんになるだけですから……先に更衣室に行ってますね」
そう言うと、小走りで立ち去った。
鈴木はそんな小春を黙って見送ると、興味津々で、残された春希に聞いた。
「つまり……そういうこと?」
「……」
春希からは溜息しか返って来なかった。
午後から会場入りした春希は、関係者への取材を手早く済ませるとかずさの控室へ向かった。
「あ、春希くん、いらっしゃい」
控室では、雪菜が出迎えてくれた。だが、その表情はいつもと違って少し不安そうだった。
「どうした?何か問題でもあった?」
春希が問いかけると奥からかずさの答えが返ってきた。
「大丈夫だよ、問題無い。ちょっと気分がすぐれない気がするが…久しぶりの日本での演奏だから緊張してるのかな。あたしらしくないよな」
言葉尻は軽いが、表情は少し暗かった。
確かに、かずさにしてみれば、実力以上に話題が先行してしまい、各方面からの期待も日に日に増してきていたから、絶対に失敗できないという思いは強いだろう。
「そうだよ、かずさはすごいんだから。いつものように弾けばいいんだよ」
雪菜も言葉をかけるが、いつもの力が無い。
皆が不安そうな表情の中、かずさは春希を見て言った。
「今日は春希の為だけに弾く。だから、あたしのピアノ、聞いてくれ」
「ああ、分かった」
春希も少し心配だったが、かずさの瞳を見て安心できた。あの様子なら大丈夫だろう。
春希と小春は客席でかずさの登場を待った。
そして、コンサートの開演。
誰もがかずさのピアノに圧倒された。
その音に込められた想い。
嬉しさ、悲しさ、優しさ、辛さ、かずさの中にある感情がそのまま音として伝わってきた。
1曲目も、2曲目も、割れんばかりの拍手だった。
それが狂い始めたのは最後の曲の中盤あたりから。
その異変に、春希と小春はほぼ同時に気付いた。
「冬馬先輩、すごく辛そう…」
「ああ、やっぱり体調が良くなかったんだ…あいつ」
他の観客からもざわつきが出始めていた。それでもなんとか持ち直し、最後は拍手で終えられた。
演奏を終え、観客席に向かってかずさは頭を下げると、急ぐように舞台袖へ姿を消した。
ほとんどの観客からは好意的な感想が聞こえたが、一部の関係者らしき人たちの苦言も春希の耳に入ってきた。
『感情表現が追い付いていない』
『一人でコンサートをするには体力不足』
『そもそも実力不足、話題先行でしか無かった』
そういう批判に耳を閉ざすように、春希と小春はかずさの控室へと向かった。
控室の前では雪菜が心配そうに立っていた。
「雪菜、かずさは……」
春希の姿を見つけると、雪菜は駆け寄ってきた。
「春希くん、かずさが…かずさが…」
「かずさに何があったんだ?」
「分からないの……、演奏が終わった後、すぐに控室に駆け込んでしまったから…。わたし、どうしたらいいか分からなくて……」
雪菜は今にも泣きだしそうだった。
「それで、かずさは中にいるのか?」
「うん……入ってすぐ、荷物をひっくり返したような物音がして…わたし、怖くて部屋に入れなかった」
そこまで言うと、雪菜は控室の扉を振り返り、見つめた。
「最後、少しおかしかったからな。気持ちが高ぶっているのかもしれないな」
思うような演奏が出来なかったのが悔しかったのだろう。
しかし、今は雪菜の言ったような激しい物音は聞こえない。
かすかに、何かしている物音が聞こえる程度だ。
雪菜と春希と小春の三人は、そのまま黙って扉の前に立っていた。
やがて、僅かに扉が開き、かずさが声をかけてきた。
「雪菜……すまないが、ちょっと来て貰えないか……」
押し殺したようなその声に、雪菜は恐る恐る控室に入って行った。
春希と小春はそのまま待っていた。
中からは、なにか話声が聞こえる。
そして、扉が開き、雪菜が飛び出すように出てきた。立っていた春希にぶつかるような勢いだったので、春希は雪菜の体を両手で受け止めた。
そのまま、春希の顔を見た雪菜の目は涙で濡れていた。
「ごめん…ちょっと急ぐから……」
そう言うと、雪菜は紙袋を抱えて走って行った。
暫くその姿を茫然と見ていた二人は、背後からの声に我に返った。
「春希……杉浦さん…心配かけた。もう…大丈夫だから……」
そう言うと、かずさはぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。
春希は堪らず、かずさの肩を両手で捕まえると、まっすぐに見つめて言った。
「いったい、何があったんだよ。…話してくれよ……」
その言葉にかずさは、一瞬びくっと肩を震わせた。暫くして、俯きながら小さな声で話し始めた。
「…実はな…あたし、何というか……その…」
「ああ、何でも聞いてやるから…話してみろ……」
春希は優しく声をかけた。その声に、かずさは俯いていた顔を上げて、春希の目を見つめた。
「……お…」
「お?」
「…お……お前に……お前に話せるわけ無いじゃないか!」
そう言い放つと、かずさは控室に入り、扉を勢いよく閉めた。
春希は突然の予想外の言葉に唖然と立ち尽くした。
後ろでくすっという笑い声のようなものが聞こえたので振り返ると、雪菜が笑顔で、でも、泣きながら立っていた。
「雪菜…いったい、何が…」
戸惑う春希に雪菜は控室の扉を開けると言った。
「かずさも、自分で話すって言ってたのに……。いいよ、二人とも中に入って」
控室の中で、かずさは椅子に座っていた。
三人が入って来るのを見ると、立ち上がり、深々と頭を下げた。
「せっかく最高の演奏を聴かせるつもりだったのに、済まなかった。でも……あたし…」
そこでかずさは声が詰まった。
「いいよ、気にするな。こんなこともあるさ」
春希は出来る限り優しく言った。
「あたし……あたし、こんなことって……嬉しくって…」
「え…?」
「突然だったから……いきなり来ちゃったから…あたし…」
春希は何が何だか分からなかった。
「え…? …あ…あ、あー!」
突然横にいた小春が大声で叫んだ。
「来ちゃったって…、もしかして、本当に来ちゃったんですか?」
「え?いったい何が…おい、小春?」
未だ理解できずといった春希に雪菜は呆れ顔で言った。
「もうー、春希くんは鈍いなぁ、察してよ、ね、かずさ」
そこまで言われて、春希もようやく一つの答えに辿りついた。
「もしかして、…本当に……なのか?」
春希の問いかけに、かずさは大きく頷いた。
「こんなに……嬉しい事は無い。コンサートは失敗だったけど、今日は最高の日だよ」
春希の恋と愛
「まったく……、こんな事になっていたなんてね」
控室の入り口には、曜子が呆れた様子で立っていた。
コンサート終了後、関係者からの慰めとも憐れみとも取れる言葉に嫌々対応し、さぞ落ち込んでいるだろうかずさに、嫌みの一つでも言ってやろうと思っていた。
しかし、当のかずさはそんな事は気にもせず、というよりはむしろ原因の体調不良を喜びとしてしまっていたのだ。
それでも、これは曜子にとっても嬉しい出来事には違いなかった。
「孫……か…」
欲しくない訳では無かったが、考えないようにしていた。なにしろかずさが春希一筋であったこと、そして、ウィーンに来てすぐかずさから打ち明けられ、病院にも同行した。
かずさ自身がその後の治療を希望しなかった為、曜子も無理には勧めなかった。春希への深すぎる想いを分かっていたから。彼以外の男の子供なんて欲しく無いという娘の想いを。
願わくば、春希がかずさを選んでくれれば良いのだが。
「ライバル達は強力なのよねぇ…」
恋人や愛人としてならば勝てるかもしれないとは思ったが、妻としては明らかに二人に劣っている。何しろ家事が出来ない。
「あとは…ギター君がどう考えるかよね……」
そう呟くと、曜子はそっと控室を後にした。
人目を避けるようにして、4人はタクシーで冬馬邸へ向かった。
特に会話も無く、そのまま玄関から地下のスタジオへ下りた。
かずさはそのままピアノの前に座り、ゆっくりとしたメロディーの曲を弾いている。
「いい曲ですね…でも、何ていう曲ですか?」
目を閉じて聴きながら、小春がかずさに訊いた。
「……いや、タイトルは無いんだ、あたしの中にある幸せのイメージを曲にしてみたんだけど…」
かずさは弾きながら、そう答えた。
そのまま、静かに曲が終わった。
静寂の中、春希がかずさのすぐ後ろに行き、口を開いた。
「やっぱり…、お前、かっこいいよ」
そう言うとかずさの両肩にそっと手を置いた。
「…はるきぃ……」
手が置かれた瞬間、かずさは僅かにびくっとしたが、すぐに甘えたような声で春希の名を呼んだ。
「だから……、お前は永遠に、俺にとって憧れの存在なんだ。…これからも、ずっと」
そして、肩から手を離し、二人の様子を、両手を胸の前で握り締めて見ていた雪菜の目の前まで行くと、その両手を包み込むように手を重ねた。
「……だから、恋人にするなら雪菜のような女の子がいいなって、付属祭でミスコンがあるたびに思ってた。
そして、あの頃の高嶺の花は、今はすぐ手の届く処に居てくれる……」
「春希くん……」
雪菜はうっとりとした表情で、春希を見つめた。
小春は、そこまでは春希を目で追っていたが、耐えきれず、視線を逸らすと俯いた。
―そう、春希さんが誰を選んでも、受け入れるって決めていた。
だから、泣いちゃいけない。笑顔で祝福しないと……
溢れそうになる涙を必死で堪えていた為、春希が自分の前に来ている事に、小春はすぐには気付かなかった。
春希は小春が顔を上げるまで、何も言わず待っていた。
どれくらい経ったのだろう、小春は春希が自分の前に立っていることに気付くと、顔を上げ、潤んだ瞳で春希を見た。
「やっと、俺を見てくれた」
優しい声で、春希が言った。その表情に、小春は春希の想いを感じた。
「え……でも…恋人にするなら、小木曽先輩だって……」
そう言う小春を、春希はしっかりと抱きしめた。
「かずさや雪菜には恋をしていた。でも、俺が愛しているのは小春なんだ。俺が唯一人、守ってやりたいって思う女の子は小春だけなんだ」
「……あ……ぁ…」
小春の目から涙が溢れて春希の姿が滲んで見えなくなった。
そのまま、春希の胸に顔を埋めて背中に腕を廻した。
「ああぁ……あぁ……」
涙が止まらなかった。そのまま声をあげて泣いた。
春希は小春が泣き止むまでその小さな体を抱きしめていた。
気が付くと、かずさがまたピアノを弾きはじめていた。
優しいメロディーにアレンジされた『届かない恋』だった。
「かずさ、雪菜、済まない。俺はお前たちを選んでやれなかった…」
かずさは無言でそのままピアノを弾き続け、曲が終わって春希に目を向けると、呆れたように言った。
「何を言ってるんだ、おまえは……。誰かを選べば、当然選ばれないやつだっている。それともおまえは、ハーレムでも作りたかったのか?」
「……いや、そんなことは……いてっ!」
小春に脇腹を抓られて春希は声をあげた。
「どうしてすぐに否定しないんですかっ!」
「いや、だって、冗談だって分かってるから…」
しどろもどろに弁解する春希を見ながら、雪菜が呟いた。
「わたしは……それでもいいなぁ…」
三人の視線が雪菜に集中したが、当の雪菜は気にもしなかった。
そしてまた、かずさはピアノを弾き始めた。今度は『時の魔法』。
「雪菜も、そんな冗談言ってないで、まだ諦めるのは早いだろ?要するに、今の春希じゃあたしたちを守るなんて出来ないってことさ。年下の杉浦さんだから守れるんだ。
母さんも言ってたけど、男って20代はまだ頼りないんだって。30代になってようやく本当の力を付けてくるんだ。その頃にはあたしたちを守りたいって思うかもな」
雪菜はかずさの言葉に、一瞬驚きの表情を見せたがすぐに納得した表情で頷いた。
「うん、そうだね…願いは、きっと叶う…よね」
「そうだよ、杉浦さんに教えられた事はたくさんあるんだから。10年でも、20年でも……待てるさ」
「その前に、春希くんが小春さんに愛想を尽かしちゃうってことも?」
雪菜は悪戯っぽく小春に視線を向けた。
「そ…そんなこと、ありません……よね?」
小春は心配そうに春希を見上げた。
「小春次第だな」
慌てた小春の表情が面白かったのか、春希は笑いながら答えた。
雪菜もかずさも笑っている。
「だから、がんばって春希を幸せにしてやれって事。春希もいつだってここに逃げてきていいからな」
「そうそう、ここはわたしたち3人の別宅って事で、何かあったら、いつだって『別宅に帰らせていただきます』って書き置き残して戻ってきていいからね」
二人の本気とも冗談とも分からない言葉に、なぜか春希も小春も幸せを感じていた。
だから小春も少し強気の返事が返せた。
「そう簡単に、ここに来させませんからね」
「いや…小春……」
春希が申し訳なさそうに小春に耳打ちした。
「実は、バレンタインライブの練習で、また暫くここに通うんだけど……」
「!!………」
言葉を無くした小春に雪菜はにっこりと笑って言った。
「仕方ないよ、だって、わたしたち3人はこれからもずっと『軽音楽同好会』なんだから」
ライブへの期待
翌日朝、出社した春希は、早々に浜田に捕まった。
「…それでさ」
重苦しい浜田の声に、春希はあえて平静を装った。
「はい?」
「昨日のコンサートのレポートは?」
やっぱり聞かれたか……
どう書こうか、迷っていたのにな…
「それは…」
「…って、昨夜の今朝でってのはさすがに言い過ぎか。ま、いいや、次回で」
「………」
「でさ、どうだったコンサート? 俺、仕事の関係で行けなくてさ」
でも、結局聞かれるのか……
「あ、いや、その…」
「なんだよ?随分と微妙な反応だな。もしかして、大したことなかったか?」
「いえ、そういう訳じゃなくて… あの、申し訳ありません、実は…」
かずさの体調不良で、失敗だった事は隠せないなと諦めていると、
「てことは本当だったんだなぁ…この記事」
「…記事?」
「今朝の東経新聞の文化欄… 昨日のコンサートのことが小さく載ってるんだけどさ、これが…」
「もしかして…評判悪いんですか?」
「いや、全体的にはいいよ? スポーツ紙でも、ネットでの評判も」
「それって…」
スポーツ紙やネットって、いわゆる専門外の一般の声か…
「ほとんどの記事が、当日の盛況ぶりとか、冬馬かずさを初めて見た感想とかばかりで、実際に演奏をきっちりレビューしてるのは…」
そう言って浜田は手に持ったコピーを春希に手渡した。
「この記事だけ…?」
「それだって別に酷評してる訳じゃない。技術は世界レベルだってちゃんと評価してるし」
「………」
「それにその評論家、辛口で有名でな。来月の音楽誌を見てみないと、本当の評価は出てこないけど」
春希の視線は手に持ったコピーにくぎ付けになった。
軽く流してみただけでも、気になる文章が次から次へと目に留まる。
『明らかに準備不足』
『高い技術で表面上は取り繕っているが、表現力が追いついてきていない』
『後半に行くにつれ勢いがなくなっていく流れをせき止めるほどの体力と経験に恵まれていない』
『長丁場のソロコンサートを一人で弾き切るには、色々と不足していると言わざるを得ない』
やはり、無理をしていた為、それなりの人ならこの評価も仕方ないだろう。
「ただ、昔からアンサンブルでも記事書いてる人でな、編集長も結構信頼してるそうだ」
「そう、なんですか…」
どう説明したものか…、春希は迷った。
確かにかずさの体調不良でコンサートそのものの出来は悪かった。
しかし、冬馬曜子オフィスの誰も、そんな事は気にもしていない。
昨日の夜、雪菜からメールが来たが、帰って来た曜子さんと3人で祝杯を挙げたと書いてあった。
曜子さんは見たことも無いくらいハイテンションで、手がつけられなかったらしい。
特集誌の発売を控えて、逆風の評価は売り上げに直接響いてくるので、浜田としては不安なのだろうが。
男二人が顰め面で立っているところに、鈴木から声がかかった。
「浜田さん、吉松編集長が呼んでます。冬馬社長がみえているらしいです」
「冬馬社長が?」
浜田は応接室へと急いだ。
「ねえねえ、実際の処どうだったの、昨日のコンサート」
「鈴木さんだって会場で聴いてたんでしょ?浜田さんの代わりに」
「そうだけどさぁ、私クラシックって良く分かんないから、上手だなぁって思ってたけど?」
一般の人はこんなものだろうなと春希は改めて思った。
そういえば春希も、付属時代に隣の第二音楽室から聞こえてくるピアノを、ただ上手だなとしか感じていなかった事を思い出した。
今では、かずさのピアノの音色から、かずさの感情を察することもある。
「まあ、冬馬かずさの演奏としては最悪でしたよ」
「そうなのかぁ…」
春希の言葉に納得したのか、鈴木は自分の仕事へと戻って行った。
暫くして浜田が戻って来た。
「参ったよ……、なんだよあのハイテンション」
疲れ切った表情で席にどかっと座った。
「どうしたんですか?まさか娘の不甲斐ない演奏にキレたとか……」
心配そうに鈴木が声をかけた。
「いや…全くの逆。まさにこの世の春といった感じでさ」
浜田は背もたれから体を離すと、机の上に乗り出すようにした。
「部屋に入って挨拶が終わるやいなや、『いやー、昨日はごめんなさいねぇ、あの娘ったらもぉー。でも、次は大丈夫だからねぇ』って、終始にこにこしちゃって…」
「何かあったんですか?」
「それがさっぱり、やっぱあの人分からんわ…」
浜田と鈴木の会話を横で聞きながら春希は今週以降の予定を確認していた。
かずさの取材で本来の仕事から離れていたので、暫くは各方面との調整に気を付けないと。
そう考えていると、浜田から思わぬ言葉がかけられた。
「北原、お前は暫くは仕事量を抑えておけ。何でも冬馬かずさとライブに出るそうだな。冬馬社長からお前の事頼まれたよ。練習時間を都合つけてくれってな」
「おいおい、またかよ北原…」
松岡が不満を漏らしてきた。
「すみません、松岡さん。なるべく仕事に支障が無いように気をつけますから」
「いいんだよ、北原君。松っちゃんの場合は、単に北原君がいないと手伝って貰えないから言ってるだけだから」
「まぁ、鈴木の言うとおりだな。松岡はもう少し仕事のスキルを上げる為にも、北原抜きでやらせるつもりだからな、気にするな」
「そんなぁ……」
春希が戻って来るのを心待ちにしていた松岡にとっては、浜田の言葉は重かった。
「それに今回は、また『冬馬かずさ』を記事に出来るネタでもあるからな。ライブだからキーボードだろうが、それでも話題にはなるからな」
「それなんですが、どうも本人は、別の楽器を演るみたいなんですけど……」
春希はかずさが言っていたことを思い出した。
「別の楽器って…何?」
「さあ………」
鈴木が興味を示してきたが、春希も聞いていないので答えられなかった。
その日の夜、仕事を早めに切り上げた春希は、冬馬邸で雪菜からライブの詳細を説明して貰った。
「マジかよ…、ホントに何でも出来るんだな」
「ここにある楽器ならな。付属時代の暇つぶしの成果さ」
「それよりも春希くん、一応このことは当日まで秘密にしておいてね。出来るだけたくさんの人を驚かせたいから」
雪菜の説明だと、かずさの出演も秘密にしてあるそうで、メンバーと柳原朋以外には話していないらしい。
「で、まず最初は普通に『届かない恋』を演奏するの。間奏の所でわたしからメンバー紹介をするんだけど、まずわたし、その後に春希くん。
最後にかずさの紹介で会場中をあっと言わせるの。それで、その後はアレンジした『届かない恋 '13』でまたあっと言わせたいなぁと」
雪菜はこう言っているが、春希には『あっ』というよりも『おおぉ…!』という感じになる気がしていた。
バレンタインライブ
2月14日、この日は朝から曇り空で寒く、今にも雪が舞ってきそうだった。
小春は美穂子、小百合と待ち合わせして、春希たちの出番少し前に会場入りした。
亜子も誘ったのだが、こちらはすでに孝宏と約束しているとのことで、今回は別行動になった。
春希たちの出番は主催者都合として一番最後になっていた。
こんなライブに途中から入場して、いい席など空いていないのが普通なのだが、実は春希、雪菜、そしてかずさの3人は最前列で最初から聴いているのだ。
そして、小春たちと入れ替わるように、控室での準備に向かうという段取りだ。
「お待たせしました、春希さん……と、…ああ!和美さんじゃないですかぁ、お久しぶりです」
変装姿のかずさを見て、小春から笑顔がこぼれる。
「で…そちらは?……まさか!小木曽先輩?」
だぶだぶのトレーナーに三つ編み眼鏡姿の雪菜を小春はまじまじと見つめた。
「はは…まあ、そう言う事だから。かずさは素顔じゃまずいと思ったんだけど、それならって雪菜も調子に乗っちゃって」
「これ、柳原さんも気付かなかったんだよ。二人とも代理で席を取ってると思ったみたい」
雪菜は嬉しそうに言った。
「ねえ、小春ちゃん、その人たちって……」
美穂子は何となく気付いたようだった。
「これからライブでもっと驚くから、期待しててね」
雪菜はそう言って控室へと向かった。すぐ後を春希たちも追った。
「それでは、最後のグループの登場です。」
司会の朋が紹介を始める。
「グループ名の『SNOW LEAF』の由来は、実は今日だけこのグループと一緒に演奏することになった、『峰城大付属軽音楽同好会』のメンバーの名前からです」
その瞬間、会場からざわめきが起こった。なにしろ『峰城大付属軽音楽同好会』と言えば、あの曲だ。
「最後の曲だけですが、その伝説のグループと一緒に、峰城大で初めて『あの曲』を生でお送りします」
会場中から『うおおおぉ……!!』という地響きのような歓声が沸き起こる。
その歓声の中、幕が上がり、『SNOW LEAF』の演奏が始まった。
「ねぇねぇ、小春、『SNOW LEAF』ってやっぱり雪菜さんからだよね」
小百合が興味津々で聞いて来た。
「うん、最初は『SNOW GREEN』にしようかって言ってたらしいんだけど、菜っ葉の『葉』の方で『SNOW LEAF』の方が、イメージに合うからって」
小春は春希から聴いていた事をそのまま説明した。
あの伝説のライブで感銘を受けて、何組もバンドが新しく生まれたらしいが、その中でも特に『雪菜ファン』の下級生が集まって出来たのがこの『SNOW LEAF』だった。
もちろん『届かない恋』も完璧に演奏出来るのだが、雪菜以外のボーカルにどうしてもメンバーが納得出来ず、これまでライブで演奏したことは無かった。
『SNOW LEAF』の持ち歌2曲が終わると、ステージの照明がいったん落とされ、右袖にスポットライトが当てられた。
その中に、まず、真っ白なステージ衣装の雪菜があらわれた。そして、すぐ後に地味なジャケットの春希が続く。
「あれ、二人だけ?」
美穂子が不思議そうに小春に聞いた。
「うん、これはサプライズだからって、冬馬先輩はこっそり入ってるんだって」
「ふうーん、でもさぁ、キーボードじゃないんでしょ?なに演るの?」
小百合の質問に、小春は首を振った。
「それが、私にも教えてくれないんだ。楽しみが減るからって」
ステージ中央の雪菜が頭を下げた処でイントロが始まる。
その直後、会場から、わあっ!という歓声が上がった。
「やっぱり、あの曲だ」
「嬉しい!『届かない恋』生で聞けるんだぁ!」
「でもさあ、あのメンバーって確か3人だったろ?」
「そうだけど、あと一人って……確か……」
「そうそう、こんなとこ来てくれる訳無いって」
一部の当時を知るらしき観客からの声が聞こえた。
そんな声も、雪菜の歌声が響くと、一層大きくなった歓声にかき消された。
会場中の手拍子の中、雪菜は楽しそうに歌う。
春希も嬉しそうに、雪菜を見て、そして視線を後にずらして恐らくかずさと目が合ったのだろう、一瞬『にやり』としたのが小春には分かった。
あそこに冬馬先輩が居るんだ、そう思い、目を凝らすが、かずさの姿は確認出来なかった。
そして、間奏になり、雪菜のMCになった。
「どうもー、こんばんは。えっとぉ……『軽音楽同好会』です!」
会場からの歓声が大きくなる。
「今日は突然ですが、『SNOW LEAF』さんのステージに入れてもらっちゃってます。わたし、ボーカルの『小木曽雪菜』です」
さらに大きくなる歓声。
「そして、この曲の作詞者でもある、ギター『北原春希』!」
「なんでここで歓声が小さくなるんだろう…」
「仕方ないよ、だって小木曽のお姉さんと比べたら…」
小声で文句を言う小春に、小百合が本音を言うが、睨まれたので黙ってしまった。
「そして、もう一人。5年ぶりにわたしたち二人のもとへ帰って来てくれました」
ズダダダダン!と、ドラムの音が響く。そして、ドラマーが立ち上がり、黒のステージ衣装に身を包んだかずさが姿を現した。
「この曲の作曲者でもあり、今日は…ドラム『冬馬かずさ』!」
会場が一瞬、水を打ったように静まり…直後にこの日最大級の歓声に包まれた。
「おいおい、あれ、ピアニストの『冬馬かずさ』だろ?」
「なんでここに…って、さっきまでのドラムって」
「すげぇ、ありえねーぐらい、すげぇー!」
「しかも、作曲者って言ったよな。これって確か5年前の曲だろ…ってことは、附属生だった時の作曲かよ!」
歓声とざわめきの中、かずさはドラムを正規のメンバーと交代すると、ステージ左袖に置いてある楽器へ手を伸ばす。
「そして、今からは、かずさが今日の為にアレンジしてくれた『届かない恋 '13』でーす!」
♪はじめーてー、声をーかけたらー♪
「すげー、今度はヴァイオリンかよ!」
会場中が驚きに包まれる。もちろん、小春も美穂子も小百合もこれには驚いた。
「すごいね、ホントに何でも出来るんだぁ」
小百合の呟きに、小春は以前春希が言っていた事を思い出した。
かずさは地下スタジオにある楽器は何でも一通りこなせる。そう言えば、ドラムセットもあったけど、ヴァイオリンってあったっけ……
思い出そうとしたが、そもそも置いてある楽器の種類が多すぎて、何があったかまで全ては思い出せない。
「あれ、全部出来るんだ……」
耳に届くなめらかなヴァイオリンの音色を聴きながら、小春は改めてかずさのすごさに感心した。
「春希くん!」
歌い終わると、雪菜が春希を呼んだ。
そして、春希を中央に、3人が寄り添うように集まった。
「おい、二人とも、近いって…」
「いいじゃないか、気にするな」
「そうそう、気にしないで」
体を寄せてくる二人に、照れながらも嬉しそうな春希に、会場からはやっかみとも取れる声援が送られた。
「みなさーん、今日は本当にありがとう。かずさが戻って来てくれて、ようやくわたしも、また歩き出す事が出来ました。今日はその第一歩です。かずさ、準備はいい?」
雪菜の声に、かずさが答える。
「とっくにOKだよ」
「おい、二人とも何を……」
戸惑う春希の両頬に二人の唇が同時に触れた。
「!!」
「ちょっと、小木曽さん、冬馬さん、何やってるんですか!」
たまりかねて、朋が叫んだ。
「だって、今日はバレンタインデーでしょ。チョコレートじゃありきたりだから、かずさと相談してキスをプレゼントにしたんだよ」
「したんだよって……」
朋も呆れて言葉を無くした。
「小春ちゃん、大丈夫?」
心配した美穂子が小春の顔を覗き込んだ。
「はあー…、本当にあの二人は、もぉー……」
しかし、予想に反して小春はどちらかと言うと、呆れた表情で脱力していた。
「大丈夫だよ、美穂子。あれは私に対する応援なんだよ、きっと。……気を抜いたらいつでも取っちゃうよ、ってね」
春希もそう感じているようだった。ステージの上から、ちょっと困ったように、でも優しく小春を見ている。
「一生、気の抜けない、人生の始まりなんだよ」
外はいつの間にか、雪が降り出していた。
