出会いと再会
「インタビュー…だって?」
黒のロングヘアーを振り回すように勢いよく振り向いて、不機嫌を隠そうともせずにその美少女は睨み返す。
「25日の10時から。先方からこちらのホテルに来てくれるって」
そんな彼女の気持ちなどお構いなしに、淡々と年配の女性が答える。
「そういうのはしないって言っただろ?授賞式とか、最低限に留めてくれって何度も」
冬馬かずさは母親の冬馬曜子に自身の不満をぶちまけていた。
事の始まりは、母曜子の気まぐれで急にストラスブールのクリスマスミサに行く事になったばかりだっていうのに、そこに向かう列車内でさらに不機嫌になる予定を追加してくるなんて。
「ったく…」
随分慣れてきたとはいえ、さすがにこの予定追加は気に入らない。 相変わらず、自分の都合だけで物事を決めるんだから… けれど、そんなかずさの様子を気に留めることなく淡々と次の話を進める。
「それから、かずさ。これ使いなさい」
曜子が手渡したのは、帽子とマフラーと……眼鏡?
「何これ?デザインもあたしの趣味じゃないけど…」
いかにも変装グッズっぽいものだった。 かずさは渡されたものを不審そうに眺めて言った。
「最近、日本のマスコミが結構ヒートアップしてるんだって、あんたに関して。 特にこれから行くストラスブールは、この時期いろんな雑誌が特集組んだりして結構うるさいのがウロウロしてるらしいから…。念のためよ。 あと、その髪も目立つからまとめてアップにしておきなさい」
「でも、あたし、髪なんて結えないよ。だから、それは母さんに任せる」
「まったく、いい歳なんだからそれぐらい出来るようになりなさいよ」
少し考えてみたが、結論はいつも通りだった。
「……めんどくさい」
そう言うと、かずさは曜子に背を向け、頭を差し出した。
「…ところで」
もったいぶった口調に、ああ、これからが本題なんだなと警戒心を込めて答えた。
「今度はなに?」
娘の不満がピークに達しているのを全く気にせず
「そろそろ、来年のツアー計画発表したいんだけど」
これには、かずさは無言で意思表示した。 分かっている。母がもうそろそろ計画に組み込みたい場所は、かずさにとって生涯遠ざけたい場所だから。
その後はいつもの不毛なやりとり…
「…もういい」
あたしは日本になんて絶対に行かない…行きたくない。 ……いや、絶対に行っちゃいけないんだから…
ストラスブールの駅の周辺は一面の銀世界。 人々が足元を気にしながら行き交う。 その片隅で、かずさはようやく届いた着信を呆れた表情で受けた。
「いったい、どれだけ探したと思っているんだ、………」
こう言いたくなるのも、当然のことだ。 途中で旧友と偶然会った母は、娘をほったらかしていなくなってしまった。 待ち合わせ場所を決めていたのに母は待ち合わせ時間を過ぎても現れず、携帯でなんとか連絡をつけると、急な予定の変更に尚もぶつくさ言いながら、かずさはタクシー乗り場へ向かった。
クリスマスのこの季節、ここは楽しそうに笑う観光客で溢れ返っている。
「ああ、それじゃこっちは、先にホテルにチェックインしとく」
そんなかずさの耳に周りの喧騒の中から、普段聞く事のない、けれど馴染み深い国の言葉が聞こえてきた。
「日本語…か」
やっぱり、日本人も多いな… 有名な観光地なら、そんなもんだろう。
「さて、と」
もう、あたしには関係ない国なんだから、と自分にいい聞かせる。しかし
「…行き方、わかるか?」
…え? その声が、かずさの足を止めさせる。 そのまま通り過ぎようとしたのに、何故か心臓が大きく脈打った。
「………頑張れ」
………え? 妙に気になる、この偉そうな、でもそれでいて優しい口調と声…そう、かずさの心にこの5年間ずっとしまっておいた大切な声。
振り返ると、そこにはタクシーに乗り込む一人の男性がいた。 肩に雪の少し積もった黒いコートの後ろ姿しか見えなかったが、かずさは確信してしまった。
「あ、あ………あああっ!」
走り去るタクシーを目で追ううちに、この場所で母と待ち合わせしていることが、頭からきれいに消え去った。 そして、すぐ後のタクシーに飛び乗ると追いかけていた。 フランス語も英語もまるで駄目だがこの辺りはドイツに近いのでタクシーの運転手なら、かずさの話せるドイツ語でもなんとかなる。
しばらく追いかけた後、確かにそのタクシーから人が降りるのを確認したのだが、自分が降りてあたりを見渡すとすでに見失っていた。
……間違いないんだ…
もはや確信を持っていた。
願望に近いものではあったが。 けれどいくら探し回っても見つからない。
「あっ!」
踏み固められた上にさらに積もった雪で足元がよくわからず、何度かすべったりひっかかったりしているうちに、遂にはヒールが折れて転んでしまった。
すぐに立ち上がって歩こうとしたが、これではうまく歩けない。 そんなかずさを見かねた近くの人が心配し、声をかける。
「ほら、ヒールが折れてしまっている。これじゃまともに歩けない」
親切に手を貸して立ち上がらせてくれた人にろくにお礼も言わず、むしろ自分にかまうなと態度で示す。
「こうすれば…歩ける」
そして、ブーツを脱ぐと投げ捨てた。ほら、これなら普通に歩けるじゃないかと。
「っ………春希」
そして、そのままふらふらと噴水の方へ歩いて行く。
あっけにとられた周りの視線を強引に無視していると、真正面からこちらを見ている小柄な女性が突然大声で話しかけてきた。
「何やってるんですか!?あなた、いったい…」
もうおせっかいはうんざりだと感じていたかずさは、反射的に平然を装った。
「いや、あたしは大丈夫…」
二人の間に僅かな沈黙が訪れた後に、お互いに見つめ合った。 その女性は、かずさの異常な状態を見て、思わず普段使っている日本語で叫んでしまったのだろう。第一声のあと、少し沈黙があった。 かずさも、その言葉が日本語だと理解する前に、日本語で答えていた。
暫く見つめ合った後、お互いに相手が日本人だと改めて認識した。
「どこからどう見ても、大丈夫に見えません。こんな雪の中で靴も履かずに、いったい何を考えているんですか!」
見た感じは、かずさより少し年下だろう。しかし、その口調はどちらかというと上からで、かずさは自分が叱られている子供のように思えてきた。
「あんたには、関係ないだろ?どうやって歩こうが、あたしの勝手だ、ほっといてくれ!」
少し気恥しくなったかずさは、いつものように他人を拒絶した。何度も差し出される手を、そのたびに無造作に払いのけた。 こうすれば、みんな自分に近寄ろうとしなくなるから。 でも、その女性はかずさの記憶する最高レベルに近いぐらいの忍耐力だった。
「ほっとける訳ないでしょ、明らかに異常なことしてるんですから!あ…ほら、もう血が滲んできちゃってますよ、すぐに手当てしないと…」
その行動に、胸の奥のほうにちくりとした痛みを感じながら、それを錯覚だと自分に言い聞かせて、差し伸べる手を拒否した。
「そんな事は、後回しだ。あたしは人を探してるんだ!この近くのホテルに来てるはずなんだ…」
かずさは口論しながらもあたりを見回していた。けれど見つけられない…どこに……
その女性は、そんなかずさに言い聞かせるようにゆっくりと話し掛けた。
「まずは、手当てが先です。その後探しましょう、私もお手伝いしますから。このあたりのホテルにお泊まりですか?とりあえずタクシーで行きましょう」
落ち着いた口調に、かずさも少し反感が弱まってきて、とりあえずホテルに戻ることに納得はした。しかし何故か、どうしても反発したくなる。
「すぐ近くだからいいよ!こんな距離じゃ、運転手に迷惑だ!」
言っているかずさ自身、段々と理不尽なことを言っている気がしてきた。
「何を言ってるんですか?緊急事態です!それとも、私に背負って行けとでもおっしゃるんですか?」
そして、渋々といった顔でその提案を受け入れた。
まったく、とんでもないおせっかい焼きだ…、まるで、あいつみたいだ………
ホテルに着くと、かずさの状態を見たベルボーイがフロントマンを呼んできた。 ドイツ語で、流暢に話すかずさを見てその女性は少し驚いた顔をしていた。
「あの…、もしかして、日本から観光でみえたんじゃなくて、こちらに在住なんですか?」
ここストラスブールはフランスの東端にあり、すぐ近くを流れるライン川を越えればもうそこはドイツである。 少し恥ずかしそうに聞いてきた女性に、
「ああ、もっとも住んでいるのはウィーンだけどな。だから、観光客には違いないけど。それにしても、これはちょっと大げさじゃないか?」
車椅子に座らされ包帯で足をぐるぐる巻きにされたかずさは、呆れたように言った。
「足の裏の擦り傷と凍傷です。実際、もう感覚無いんでしょう?おとなしく運ばれて下さい。でないとかえって迷惑です」
かずさが部屋に運ばれていく間に、その女性は少し離れて携帯で話し始めた。
「……あ、先輩ですか?すみません、ちょっと………詳しい事は、また後で連絡します。それに、もしかしたら先輩にも協力してもらうかも…」
部屋に入ると、その女性はかずさの足の具合を確認し始めた。
「なあ、あんた連れと一緒に来てるんじゃないのか?あたしなんかに構ってていいのか?」
ここまで来てようやくかずさはその女性に申し訳なく感じてきた。 けれど、かずさの言葉をまったく気にした様子もなく、
「こんな状態の人を放っておいたら、それこそその人に怒られちゃいますよ! それと、やっぱりお医者様に診てもらった方がいいと思います。ホテルから連絡を入れておいて貰いますから」
そう言うと、内線で説明し始めた。
「へえ、英語使えるんだ。すごいな…」
感心するかずさに
「ドイツ語使える人から言われても、ちっとも嬉しくありませんけど…」
少しすねたようにその女性は答えた。
「いや、あたしは英語は全くダメだから…」
連絡を終えて二人は向き合った。
「そう言えば、まだ自己紹介していませんでしたね。私、『杉浦小春』って言います。大学1年ですけど一浪しちゃったから、今二十歳です」
小春は、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「あたしは、冬……『東野和美』、歳は…二十三。職業は……芸術家?」
曜子に『冬馬かずさ』の日本での異常な人気を聞いていたため、かずさは咄嗟に、あえて偽名を使った。
「ふふっ、何で疑問形なんですか?和美さんって…分かった!自称芸術家ってことですね?」
小春は楽しそうに笑顔で言った。そのあまりにも可憐な姿にかずさはどきりとした。
「失礼な言い方だな。ああ、そうだ。気ままな仕事さ…」
不満そうな言葉とは裏腹にかずさも笑顔になった。 どうしてだろう?なんか心地良い。初対面なのにどこか懐かしい感じがする。
「そう言えば、さっき人を探してるって言ってましたよね?お手伝いしますから。どんな人なんですか?お名前とか、特徴とか?」
かずさの雰囲気が和らいだのを感じたのか、小春は穏やかに聞いた。
「いや、もういいんだ…。本当は、会っちゃいけないヤツだから……」
そう言って視線を下に向けたかずさに、小春は重い雰囲気を感じ取った。
自分が口出しをしてはいけない事なんだろうと。 「何か複雑な理由がありそうですね。分かりました、もう聞きません」
「いやに素直だな…、さっきまであんなにおせっかいだったのに」
小春の態度の急変にかずさは驚いた。こういうタイプの人間は、それでもずけずけと聞いてきてこっちをイライラさせるはず。昔のあいつの様に……
そんなかずさの反応に小春は暫く考え込むように目を伏せ、やがて、ぽつぽつと話しだした。
「…私も昔はそうでした。相手の気持ちなんか構わずおせっかいして、嫌がられてもめげずに、無理やり介入して…… でも、それで傷つけちゃった人がいるんです。大好きな親友と、その親友が想いを寄せていた…先輩と、その彼女と…」
消え入りそうな声だったが、かずさは一言一句聞き洩らすことは無かった。その言葉に含められた感情さえも。
「『先輩』か…。男の人だったのか。そして今はあんたの彼氏か……」
「え…?」
小春は驚いて顔を上げた。確かにその通りだったが、そうは取られないように話したつもりだった。 驚いて言葉を失った小春の目の前には、かずさの悪戯っぽい微笑みがあった。
「ふふっ、やっぱりそうか」
これまでの印象からガラリと変わった可憐な笑顔にドキリとしながら
「あ……。あー!ひょっとしてカマかけられちゃった?」
小春は真っ赤になって叫んだ。 そんな小春にかずさは
「いいなぁ、大学1年生で彼氏とヨーロッパ旅行か。いろいろあったみたいだけど、今は幸せなんだね…」
「いえ、そんな大そうなものじゃありません。実は先輩の海外出張先に無理やり追いかけて来ちゃったんです。 だって、去年は受験でクリスマスどころじゃ無かったから…、今年が初めての二人のクリスマスなのに、会えないなんて酷くありません?」
不満顔で小春が訴える。
「それなのに、彼氏をほったらかしてこんな事してるの?」
かずさはあきれたように問い返した。
「いえ、先輩は仕事で来てるんですから、実際にもう少し後であそこで待ち合わせだったんですよ。仕事は今日までだったから…早めに来てのんびり待っていようかなって…」
そう言った後、小春はかずさの目をじっと見つめた。
「でも、待っている間に連絡があって、急に明日も仕事が入っちゃったって!そんなの無いですよ。せっかく明日は二人で過ごせると思ってたのに! そりゃ、仕事は大事ですよ。先輩がそういう事を断れない性格だってのも分かってますよ。でも…」
小春の勢いに圧倒されそうになったが、かずさは
「二人とも似たような性格なんだな、あんただって、何か頼まれたら断れない性格だろ?」
そして、ぽつりと言った。
「あいつも、そんな性格だったな…本当にそっくりだ。世の中には似た人間が3人いるっていった話があるが…」
「それって、性格じゃなくて外見の事を言ってるんですけどね」
「くだらないツッコミまでそっくりだ…」
結局、かずさは病院で診てもらう事になった。準備出来次第、ホテル側で送迎してくれるらしい。
「本当に世話になったな、ありがとう。せっかくの彼との時間だったのに…」
こんなに素直に感謝の言葉を口にしたのはいつ以来だろうとかずさは思った。
「いいんですよ。さっきメールが来て、ちょうど仕事が終わったからこちらに迎えに来てくれるって言ってましたから。うまい具合に時間が潰せました、ってことで」
小春は事もなげに笑顔で言った。
そんな態度に今更ながら、かずさは自分が嘘をついている事が心苦しくなってきた。
「…杉浦さん、ごめん。実は『東野和美』って言うのは……偽名なんだ…本当はあたし……」
と、そこへドアをノックする音が響いた。
「すみません、こちらに『杉浦小春』と言う者がお邪魔してると思うんですが…」
小春の表情が、ぱっと明るくなった。
「あ、先輩が迎えに来てくれたみたいです」
「そうか、じゃあ悪いけどドアを開けてくれないかな。彼にも部屋に入ってもらってくれ。二人に改めて挨拶するよ」
そう言って、かずさは髪をほどくと眼鏡を外そうとしした。
「分かりました。じゃあ」
小春はそんなかずさの姿を見ずにドアに向かい、開けて、
「先輩にも挨拶したいんですって。入って下さいって言われました」
「そうか?なら俺もちゃんとしないとな」
そう言ってポケットから名刺を出しながら部屋に入った。
「どうも、はじめまして、開桜社の……」
「春…希……」
「……うそ……そんな…」
「…かず…さ……」
インタビューと宣言
翌日、春希は何食わぬ顔で冬馬曜子に挨拶をした。
「開桜社の北原と申します。今日はどうかよろしくお願いします」
「……」
曜子は無言で春希を見つめた。
「このたびはお忙しいところ、こちらの無理を聞いたいただきありがとうございました。
編集長の吉松からも、冬馬さんにくれぐれもよろしくと…」
「………ギター君?」
春希が言い終わらないうちに、曜子が呟いた。
「…北原です。お久しぶりです」
「………」
曜子はまたも無言になった。
このままでは話が進まないので、仕方なく自分から進めようと
「それで、かずさ…さんは?」
部屋の奥を覗き込むようにする春希に、
「ちょ、ちょっと待って!中に入るの、少しだけ待ってちょうだい!」
やっとのことでそう言うと、曜子は考え込んだ。
「冬馬さん?」
少し俯き指で額を押さえながら、
「ここでこういう展開は予想してなかったわよ…どうしてあなたが来るのよ?」
その質問に、春希は頭を掻きながら
「ええと…今年から開桜社に入社しまして」
「…それはおめでとう。そっか、もう大学卒業したのか。大きくなったわねぇ」
何か親戚の叔母さんのような言葉が返ってきた。
多分、前会ったときから背は伸びていないはずなんだけどな、と春希は思ったがとりあえずあたり障りのない返事をした。
「ありがとうございます」
「…と、それはそれとして、困ったわねぇ」
さらに深く俯きながら曜子は額を押さえた。
「何か問題でも?」
あっけらかんとした春希の態度に、唖然として顔を上げると
「…ないとでも思ってるの?いきなりあなたと顔を合わせたりしたら、あの子、パニックになりかねないわよ」
「ええと…」
それは既に昨日… しかも、かずさだけじゃなくて俺も…
「いいよ、入ってもらって。さっさと終わらせて、そのふざけた記者には、早々にお引き取り願いたいから」
部屋から出てきたかずさがぶっきらぼうに言った。
「…あなた知ってたの?」
落ち着いた態度の娘を見て、曜子が驚いて聞いた。
「あんたこそ知らなかったのかよ…」
そして、険悪な雰囲気の中でインタビューが進んでいった。
「続いて、来年の活動予定についてですが…、一部では日本公演との噂もあるようですが」
「ああ、行くよ」
「「え?」」
春希と曜子は思わず顔を見合わせた。
そんな二人の様子を見て、かずさは続けた。
「何だよ、不満か? けど、誰が何を言ったって絶対日本公演はやるからな」
「………」
「えぇと…曜子さん?」言葉を無くした曜子に春希が声をかける。
「かずさ?あなたいったいどうしちゃったの?昨日までは絶対に日本だけは行かないって言ってたのに…」
「気が変わった、ただそれだけ。でも、この先この気持ちが変わる事はないから」
更にかずさは続けた。
「生まれ故郷だからとか、そういう郷愁なんかじゃない。行かなくちゃならない理由があるからだ」
「その理由とは?」
春希としては、出来れば一般的な理由を聞きたかった。
「……自分で考えろ…」
「インタビューでそういう答えは困るんですが…」
「おまえが一番良く分かってるだろ?いや、おまえにだけしか分からないかな。もちろん、記事には出来ないだろうが…」
その言葉に、春希は黙るしかなかった。
「……」
確かに春希にも、理由は分かっている。凱旋帰国公演の裏に隠された帰国の理由が…
こいつ、公演が無くても帰国しただろうな……
「もう、いいだろ?インタビューなんて、疲れた」
「でも、日本のファンの皆さんは、もっといろいろかずささんの事を知りたいと思いますよ?」
春希は何とかかずさをなだめて、予定されていたインタビュー内容を消化しようとした。
「お前たちは、聞くばっかりで自分が聞かれる事が無いから気楽にそんな事が言えるんだ」
かずさの言葉に春希は少しイラッとした。
「俺なら、もしお前のような立場で質問されても、正直に答えてみせるさ。それが責任ってもんだろ?」
今度は、春希の言葉にかずさがムッとした。
「なら、あたしの質問に何でも正直に答えられるのか?」
「当たり前だろ」
売り言葉に買い言葉なのは、春希にも分かっていたが、引っ込みがつかなかった。
「…なら聞いてやる。……昨夜は彼女と…何回したんだ?」
「……はぁ?」
春希は絶句した。こいつ、なんてこと聞きやがるのか…
「お前、何か勘違いしていないか?俺はここに仕事に来ているんだぞ。それにプライベートな事は答える義務は無い」
「人のプライバシーは無視しやがるくせに…」
「そもそも今の質問の意味が分からない。ちゃんと質問を明確にしろ」
何回愛し合ったか?とか聞いてきやがったら、初めから終わりまでで俺にとっては一回だとでも答えておくか……。
「くそっ…、ならこうだ。おまえは彼女に対して昨日……何回…○○を出したんだ?」
「…うっ……」
「どうだ、答えられるんだろ?」
勝ち誇ったようなかずさの表情。こいつ、別に質問の内容なんかどうでもいいんじゃないか?ただ俺を言い負かしたいだけで…
「………くっ…」
返答に困った春希に、かずさが更に追い打ちをかける。
「どうした?春希、答えられないのか?もちろん、嘘を言っても分かるからな。おまえはこういうときは嘘が下手だからな」
そこまで言うなら正直に答えてやろうじゃないか。春希も開き直ってしまった。
「……5回だ…」
「…え?」
さすがにここまでの回数を予想していなかったのか、目を見開いたかずさに代わって
「あら、すごい。さすが若いわねぇ……、羨ましい」
それまで横で無言を貫いていた曜子が、からかうように言った。
「…まったく…ケダモノだな……」
……どうして、こうなっちゃうんだろうな……
―― 昨夜、偶然にも再会した春希とかずさ。
暫く茫然と見つめ合ったままの二人だったが、先に声を出したのは春希だった。
「……、久しぶりだな。元気だったか?」
それは、事前情報の差だった。なぜなら、ほんの少し前に春希に届いたメールに、翌日の仕事であるインタビューの詳細があったから。
取材対象の若手美人ピアニストの名前が。
けれど、かずさにはそれが全く無かった。本当に予期せぬ出会い。何故、日本でも、ウィーンでもなく、ストラスブールなのか…
曜子の気まぐれが無ければ、そしてぶつぶつ言いながらもかずさがついて来なければ…
けれど、かずさが言葉を口に出来ないでいる理由はそれとは別だった。
「……なんでだよ…なんでおまえが…」
両手の拳を握りしめながら、かずさが呟いた。
「いや、それは、実は仕事で明日おまえにインタビューする事になっててさ」
春希はあえて軽く言った。
「…なんで雪菜と別れたんだよ?その娘がおまえの彼女ってなんなんだよ!」
「………」
春希は言葉を失った。そしてまた暫く見つめ合う二人。そしてその二人を不安そうに交互に見る小春。
「仕方ないだろ。5年も経ったんだ。雪菜と付き合ってたのは5年も前の話だ」
数分の沈黙の後、かずさは春希を睨むように見ると言った。
「……そうかよ…分かった」
「なら…さ、もう会ってもいいんだよな。…いや、会わなくちゃ…いけないんだよな」
そうつぶやくと、かずさは二人を部屋の外に出し、中から鍵を掛けた。
「びっくりしちゃいましたね。冬馬先輩だったなんて全然気づきませんでした。髪型と眼鏡だけで結構分からないものなんですね」
「…え?」
春希は小春の普段と変わらない口調に驚いた。春希と雪菜とかずさの3人に、何があったかは知っているはず。
雪菜と付き合えなかった理由が春希のかずさへの想いだったと。
けれど、小春はそんな春希の心の内に気付かないのか
「あ……実は、冬馬先輩、髪を結って眼鏡をかけて、帽子までかぶってたんですよ。もし気付いてたら、先輩を呼んだりしませんよ。私、ピンチじゃないですか」
けれど、言葉とは裏腹に小春はいたずらっぽく春希の顔を覗き込む。
「もしかして、明日のインタビューの相手の事も、私には秘密にしておくつもりでした?」
小春の言葉に春希はドキリとした。確かに隠しておいたほうがいいと思っていた。
「別に怒りませんよ。それが春希先輩の優しさからの行動だって分かってますから」
「小春…」
春希は小春を抱き寄せた。強がりじゃない、心からの言葉が嬉しかった。
同時に、かずさと会って動揺してしまった自分が恥ずかしかった。
「ありがとう」
「感謝の気持ちは行動で表わして下さい。だから……今夜はいっぱい愛して下さい…」
「……ああ、分かった」
かずさは鍵を掛けたドアの前にうずくまっていた。
「あいつら…いつまでそこにいるんだよ…… そんな話、そこでするなよ……」
小春の想い
ヨーロッパ出張から帰国して数日。仕事納めのこの日、春希は珍しく…というか、入社以来初めて定時で仕事を強引に終え、急ぎ足で駅に向かった。
今日は、小春がマンションで待ってくれている。
帰国してから今日まで、連日深夜まで残業だったため、小春とは電話で話すだけで会えなかった。たかが数日会えないだけでこんなに不安になるとは、自分自身信じられなかった。その原因は分かっている。あの日、かずさと小春が会ってしまったからだ。
あの後、小春は春希の不安を一掃する言葉をくれた。その事は、正直嬉しかったし、小春の本心だということも分かっていた。ただ気になるのは、あの夜の小春はそれまでとは変わっていたことだ。いつもは春希が主導権を握り、小春は春希の想いを受け入れるだけだった。
けれど、あの夜、小春は初めて春希に
「もう一回したいなぁ」
と自分から言ってきた。
そのまま春希は小春にされるがままだった。
「こんな素敵な街で先輩とエッチ出来るなんて夢みたいで燃えちゃいました」
そのまま春希の上に覆いかぶさるように力を失って伏せていた小春は、春希と目が合うと恥ずかしそうにそう言った。
「……すっごく気持ち良かったです」
その後も小春の勢いは止まらなかった。
それまで春希は、小春にもう少し積極的に求めてほしいと思ってもいたので、この時は小春の変化が嬉しかった。
けれど、帰国して数日会わない間、少しずつ不安が増していった。
やはりかずさの事を気にしているんじゃないだろうか…
マンションで春希を笑顔で迎えてくれた小春に、思い切って聞いてみた。
「はい、気にしてますよ。あたりまえじゃないですか」
否定されると予想していたが、小春はそのことをあっさり認めた。
「…いや、あたりまえって言われても……」
春希にとってはその答えが不思議だった。
「だって春希先輩、今でも小木曽先輩の事も冬馬先輩の事も好きですよね?」
「………」
「何で黙っちゃうんですか?」
「何でって…」
どう答えるか考えているうちに、小春は春希を真っ直ぐに見つめると
「それでいいんですよ。いえ、そうじゃなくっちゃいけないんです。ずっと春希先輩を見てきて分かっちゃいました。春希先輩は一度好きになった人の事はずっと好きなままなんです。だから、この先私よりも好きな人が出来て私たちが別れちゃったとしても、私の事も好きなままでいてくれるはずなんですから」
春希は否定しなかった。確かに雪菜の事もかずさの事も好きなままだ。だから今でも二人の事を考えると切なくなる。
「小春はそれでいいのか?」
不思議そうに春希は聞いた。
「だって、それは仕方のない事でしょ?だから、もし私たちが別々の人と結婚して幸せな人生を送って、そうやって歳をとっていって……偶然にもお互いの伴侶に先立たれてそれぞれが一人になった時、もし、まだお互いに好きだったら、……その時は私たち結婚できるかなぁ…って思ったんです」
小春の言葉に春希は暫く考えて言った。
「もし、か……それに、それはそれですごく先の話だな…」
「だからいいんですよ。何があっても頑張って行こうって励みになりますから」
そう言って微笑む小春を春希は眩しそうに見つめた。小春は強いな……自分なんか比べ物にならないぐらいに純粋で、そして愛しい……。
「なんて…、実はこれ、叔母の受け売りなんですけどね」
小春は、恥ずかしそうに言った。
「小春の叔母さんの?」
「はい、今はもう50歳を越えてますけど、叔母は若い頃、恋人とほんのちょっとしたすれ違いから別れてしまって、半分ヤケになって、見合い結婚しちゃったんだそうです。でも、好きだった人のこと、どうしても忘れられなくって、時々一人で泣いてたんですって。
そんな生活にも次第に慣れていったらしいんですけど、彼と別れて10年以上経った頃、彼から急に連絡が来て二人で会う事になって… その時に、彼から言われたのが、
『今はお互い家族の事が大切なのは間違いないから、遠い将来、子供たちが独り立ちしてその後お互いが独りになるようなことがあったら、僕との結婚を考えて欲しい』
だそうです。私、それを聞いた時、そんなふうに想い続けることもアリかなって。人生のロスタイム同点ゴールみたいで」
「人生のロスタイム…か……」
それまで今を懸命に生きることしか考えていなかった春希には、無かった発想だった。
雪菜とかずさ
大晦日直前で『冬馬かずさ凱旋帰国公演』の開催が発表され、その直後にチケット発売、即日、というよりは瞬時に完売となった。
そして、あまりの人気にすぐに追加公演が発表された。
「姉ちゃんも冬馬先輩と親友だったんだろ?チケット何とかならなかったのかよ」
小木曽家では誰もチケットを手に入れる事は出来なかった。この不満を孝宏は雪菜にぶつけた。
雪菜だって絶対コンサートに行きたかった。けれど、ほんの少し躊躇してしまったのだ。
「だってぇー、発表してすぐに発売なんて思わなかったんだもん。……それにかずさとはもう…」
後半の部分は聞き取れなくなっていた。
そんな雪菜に孝宏が追い打ちをかける。
「まったくもう、そんなんだから、杉浦に北原先輩取られちゃうんだよ…」
実は、こんな軽口が孝宏の口から出るようになったのはまだ最近の事。2年前、春希と完全に決別した時は、家族みんな腫れものに触るように雪菜と接していた。
雪菜自身、就活さえままならなかった。
それでもなんとかいくつかの企業をリストアップし、それなりの準備をしようとはしていた。
だが、面接の問答集を見ていて…無理だと悟った。
「学生時代に打ち込んだ事は何ですか?」
『軽音楽同好会』 ― たった2週間だったけど…
「今までで一番嬉しかった事は何ですか?」
『親友がわたしの為に創ってくれた歌を皆の前で大好きな人たちの演奏で歌えた事』 ― 本当に嬉しくて楽しかった、めちゃくちゃに…
「今までで一番辛かった事は何ですか?」
『っ………』 ― 本当に辛かった… 考えるだけで泣けてきて心が張り裂けそうになった。
駄目だ……もし、そんな事を聞かれたらと、考えるだけでそれ以上進めなくなった。
結局何も出来なかった。
家族にはどうしても言えず、時々面接に行くと言ってあちこちで時間を潰し、数日後に結果が来たふりをして今度もダメだったよと告げた。
今はまた以前のように、スーパーで働いている。もちろん三つ編みに眼鏡で…
時間があるから家族の食事を作る事が多くなった。家の掃除も自分の部屋だけでなく、玄関先とかお風呂場とかトイレとか。
無目的に生きる事にもだんだん慣れてきた。
そんな風に生活していたある日、夕飯の洗い物をしている時に、玄関チャイムが鳴った。
「孝宏、お姉ちゃん今洗い物してるから出て」
リビングでテレビを見ている弟に言うと、孝宏はめんどくさそうに立ち上がり
「はーい、どちら様ですか?」
『……あ…あの…、冬馬と言いますが、…雪菜さんは……』
「!!」
雪菜は手に持っていた皿を危うく落としそうになった。
「……かずさ…」
インターホン越しでも聞き間違えじゃない。あれはかずさの声…
「孝宏、あとはお願い!」
そう言うと雪菜は玄関へ走って行った。
『はーい、どちら様ですか?』
インターホンから聞こえてきた声は期待していたものとは違った。
もし雪菜が返事をしてくれたなら、もう少しスムーズに声が出せただろう。
「……あ…あの…、冬馬と言いますが、…雪菜さんは……」
インターホンから返事は無かった。そのかわりドタドタという音が玄関から聞こえて来た。そして……
ガチャ! バタン!
ものすごい勢いで玄関扉が開いた。そして…
「かずさ―!!」
ものすごい勢いで飛び出してきた………雪菜が!
雪菜はかずさのいる門扉まで駆け寄ると、身を乗り出して言った。
「かずさ!、かずさ!……ああ…かずさ!」
「……、久しぶりだな。元気だったか?」
かずさは意識していなかったが、それはクリスマスイブにストラスブールで春希がかずさに言った台詞そのままだった。
「…う……うん、ぐすっ…かずさぁ……あ…あぁ……」
雪菜の目から涙があとからあとから溢れて来た。
「なあ、雪菜。少し話があるんだけど…今、時間あるか?」
「あぁ…か…かずさの…ため……なら…ぐすっ…いつでも…ある…よぉぉ…」
雪菜は泣きながら答えた。
もっとちゃんと答えたいのに、涙が止まらない…
そんな雪菜を見かねて、玄関から母が声をかけた。
「雪菜ー、せっかく来て頂いたんだからー、お部屋に上がってもらったらー?」
その言葉で少し落ち着いたのか雪菜はかずさに体を預けたまま
「う…うん、そうだね…。ねえ、かずさ…わたしの部屋でお話し、しよ?」
「そうだな、じゃぁ、お邪魔させてもらうかな…」
やっと、少し泣き止みはじめた雪菜の肩を抱いてかずさは小木曽家の玄関へ向かった。
「あ…お邪魔します…、ご無沙汰してます」
かずさは玄関で出迎えた雪菜の母と弟の孝宏に、ぺこりと頭を下げた。
「いえいえ、何もお構い出来ませんけど、どうぞゆっくりしていって下さいね」
雪菜の母は娘の友人をにこやかに迎えた。
対照的に、孝宏は眼を見開いて口をあんぐりと開けたままだった。
「ほ…本物だ……」
その言葉にかずさは
「…なに?…あたしの偽物でも現れたわけ?」
「ひっ!……そ…そんなこと…ありません!!」
かずさに睨まれて孝宏は怯えた声を出した。
「もう、孝宏ったら、変な事言ってないで、邪魔だからそこどいて!さ、かずさ、早く上がって」
雪菜に邪険にされた孝宏はすごすごと下がって行った。
久しぶりの雪菜の部屋は、あの頃と変わっていなかった。
それは、あまりにも異常なほどの無変化だとかずさは感じた。雪菜の時間が止まっている…そう思えた。
その責任は間違いなく自分にある。だから、もう一度動かさないと…たとえそのやり方が少し強引だったとしても…
「春希に会ったよ」
「え…?」
かずさの言葉に雪菜は驚いた。
「春希くんにも、会いに行ったの?」
「いや、春希とはこの間偶然、ストラスブールで会った。…あいつ…彼女と一緒だった……」
「…へえ、そうなんだ…春希くんとストラスブール……」
そのとたん雪菜の声が突然抑揚を無くした。
「いいなぁ…ふたりで……旅行… いいなぁ……ぁ…… …」
声もどんどん小さくなり、かずさでさえも聞き取れないほどになった。
「… …… … … 」
無表情で口だけ小さく動かしている雪菜を見て、かずさは本題を切り出した。
「…なんで……なんで、春希と別れたんだ?」
どうしても聞いておきたかった。
「……かずさがそれを聞くの?…かずさが……」
「いつ…別れたんだ?」
「…………知ってるくせに…、そんなの……5年前に決まってるじゃない!!あれから春希くんとはすれ違ってばかり!」
「な……」
雪菜の叫びにかずさは驚いた。自分が春希と決別し、雪菜に譲ったと思っていたあの時、二人はもう…
「なんでだよ!あたしがいなくなるんだから、別れなくってもよかったじゃないか。…二人の為にあたしは……」
バシッ!!
雪菜の平手がかずさの頬を叩いた。
「わたしの目の前で、抱き合ってキスしたくせに!!」
「っ!?」
「あ…っ」
「………っ」
「か、かずさ…?」
「ぅ、ぅぅ…っ」
「あ、あ………わたし」
「ぅぅ…ぁ、ぅぁぁ・・ぃぅ…」
「ご、ごめ…その、わたし…っ!?」
バシッ!!
「な…」
思わずかずさを叩いてしまい、動揺する雪菜の頬を、今度はかずさの平手が叩いた。
「かず、さ…」
「だってお前がっ!お前が、あいつを…」
バシッ!!
「うるさぁいっ!」
バシッ!!
「卑怯者!」
バシッ!!
「臆病者!」
バシッ!!
「偽善者!!」
バシッ!!
「馬鹿っ!」
バシッ!!
「言うなぁぁぁぁああああっ! 雪菜…雪菜ぁぁぁっ!」
「かずさの馬鹿ぁっ!馬鹿、馬鹿、大馬鹿ぁぁぁぁっ!」
「馬鹿で悪いかぁぁぁっ!」
「悪いに決まってるじゃないっ!」
………
……
…
数分後、二人はベッドの横に肩を並べて座り込んでいた。
「……ごめん」
「なんでかずさが謝るの。わたしが悪いのに」
「いいや、あたしが全面的に悪いんだ。変に挑発しちゃったから」
「喧嘩は先に手を出した方が悪いの」
「先にキれた方がもっと悪いんだ」
「それだって、わたしがずっと拗ねてたせいなのに」
「そんなこと……」
二人の間にようやく落ち着いた空気が流れはじめた。
「でも、なんで今更、春希くんの事で喧嘩しちゃうんだろう…… そんな事したって、もうどうにもならないのに… なにもかも…」
雪菜は今の自分の生活を好きになれなかった。何も考えないように、ただ、忙しく過ごす毎日…。
「なあ、雪菜も大学卒業して就職したんだろ?今、どこで働いているんだ?」
かずさは何気ない会話のつもりだったが、その言葉は雪菜を苦しめた。
「……うぅ…」
「?……雪菜?」
「実はね、大学は卒業したけど、就職出来なかったんだ…」
雪菜の言葉にかずさは驚いた。
「え?…だって峰城大だろ?あそこ卒業して就職出来ないって…お前なら面接まで行けば絶対!」
「その面接が駄目だったの。…正確には、怖くて面接に行けなかったの…だって……これまでの事、わたしについて、聞かれたら話さなくっちゃならないでしょ……。
結局、近所のスーパーでパートで雇ってもらって、あとは家事手伝いかな…最近、お母さん何でもかんでもわたしに押しつけてくるんだから。
だから、掃除も料理も家事全般何でもすっごく上手になったよ。これでいつお嫁さんになっても安心ね。……相手はいないけど…」
「雪菜…」
かずさは改めて、雪菜の心の傷の深さを理解した。そして、雪菜と会ったら相談しようと思っていた事を口にした。
「…実はさ、今回の帰国は一時的なものじゃなくって、活動拠点そのものを日本にしようかとも思ってるんだ」
その瞬間雪菜は振り向くと
「それ、本当?からかってるんじゃないよね?」
かずさの言葉に雪菜は眼を輝かせた。
もし、そうなれば、これからはいつでもかずさと会える。
「でも、問題はあるんだ。母さんは暫くウィーンに残って無くっちゃならない。向こうのオケとの契約があるんだって。
あたしは、それなら誰かマネージャーをつけてくれればいいじゃないかって言ったんだ。
そしたら、マネージャーとして、あたしとうまくコミュニケーション取れる相手なんか居るはずないって言われた。あいつ以外には出来ないって……」
雪菜は心の痛みを感じた。そう、春希くんならバッチリなんだろうなぁ……
でも、今更かずさのマネージャーなんかやってくれないだろうし…
「そう…だよね。春希くん以外には適任はいないだろうね……」
天国から一気に地獄に突き落とされた気分だった。
「でも、母さんは知らないんだ、もう一人、適任がいるって事を…」
「え?…いるの?どんな人?」
隣のかずさの手をしっかりと握りしめて雪菜は聞いた。
「今、あたしの目の前にいる人。雪菜、あたしのマネージャーになってくれないか?」
「……えぇー?…わたし?わたしで……いいの?」
「ああ、雪菜以外には考えられない。あたしのことを理解してくれて、あたしの為に動いてくれる。あたしが最も信頼できるヤツだから…」
「わたしが、かずさのマネージャー……」
握り締めた手に更に力が入った。
「雪菜…痛いって…」
「痛い?ねえ、かずさ、痛い?痛いんなら夢じゃないよね?」
「なんかそれは違うような気がするけど…ああ、夢じゃない」
「ああ、でもこのまま眠って朝起きたら実は夢でしたって事になったらいやだなぁ……
そうだ!かずさ、今夜は泊って行って?明日起きてかずさの顔を見れないと不安になっちゃうから…」
「泊って行くのはいいけど、こんな遅くに布団の準備とか家の人に迷惑じゃないか?」
「何言ってるの?ここで一緒に寝るの!」
雪菜はベッドをポンポンと叩く。
「それとも、わたしと一緒に寝るの…嫌?」
上目遣いにかずさを見る雪菜。
……それ、反則だろ… そんな風に見られたら、男でなくっても……
「ああ、いいよ。一緒に寝よう、雪菜」
翌朝、かずさが目覚めた時、雪菜はかずさの胸に顔を埋めて眠っていた。
そっと手を伸ばし、その髪を梳る。
「……ん…ぅん…… …」
起きる気配は無い。
そんな雪菜を見つめてどれだけ時間が経っただろうか。かずさの胸の中で雪菜がゆっくりと目を開けた。
「…ぁ……かずさだぁ……お…はよぉ…」
「ああ、おはよう、雪菜」
実は雪菜にとっては5年ぶりの心安らかな眠りだった。いつもは悲しい夢しか見なかったから。でも、今日は違った。
「…夢……みてた…かずさと……春希くんの…音に……会ったときの…ゆめ…」
「ああ、学園祭前の頃の夢か……」
雪菜はゆっくりと目を閉じると、かずさの胸に顔を押し付けて言った。
「ううん…違うの……わたしが二人の音に出会ったのは、もっと、ずっと、前なの……」
そして、雪菜は話し始めた。今見た夢……あの、出会いの頃の話を。

